桶狭間の戦いといえば、小国である織田家対大国の今川家の戦いとして描かれている。

今川義元が、上洛する際に、邪魔な生国を踏み潰していく感じである。

永禄三年5月19日(1560年6月12日)、今川の大軍に少数の織田信長が奇襲を掛けて、敵将今川義元を討ち取り、織田信長は戦国時代の表舞台に躍り出た。

これは、今まで散々習った歴史である。

下らない入試程度の似非勉強ならばこれで良い?のであるが、歴史を勉強して自分の知識とするにはお粗末すぎるのだ。

 

そもそも、織田家って小国なの?である。

ハッキリ言えば、織田家の方が今川家より金持ちであった。

今の名古屋港を押さえていて、熱田神宮まで領内に持ってるのだから、貧乏なはずが無いし、東海地方より、濃尾平野の方が遥かに豊かな土地である。

濃尾平野を凌駕するのは、関東平野しかないと言えるが、当時の関東平野の多くは湿地帯であったという。

今の埼玉県の浦和付近まで海水が来ていたという・・・

多くの巨大な荒ぶる河川が、江戸湾に集中していたから、とてもではないが人が大勢住む環境には無かった。

もし、今のような首都圏の土地ならば、北条氏が江戸に居城を造ったに違いないが、実際は小田原で有ったのであるから、推して知ることができよう。

余談だが、今の首都圏を築いたのは、徳川家康公であった。

なんと、当時江戸湾に注いでいた利根川を、現在の千葉県と茨城県の県境である、銚子の上まで動かしのだから、当時の土木技術は侮れない・・・

 

「戦国時代は群雄割拠していて、皆京を目指して天下を狙っていた」もお決まりであるが、私のブログの読者諸氏はそれは違うと思っていただいている筈だ。

当時の常識はでは、天下は足利家のものであり、公方様を助けて天下に号令を出すであった。

だから、今川義元が上洛しても"天下人"には成れなかったし、もし上洛していたら13代目の足利義輝公を補佐することは出来た。

今川家は足利一門であるが、同じ一門の斯波氏、吉良氏の風下の家系であった。

余談であるが、私の実家の上石神井から直ぐの杉並区に今川町という地名があるが、ここは江戸時代今川家(旗本)の領地であったという。

またまた余談ではあるが、元禄時代の権力者と言えば、柳沢吉保であったが、彼の権力の凄さは、文京区にある六義園を観れば一目瞭然である。

六義園は、全国の諸大名がこぞって普請のお手伝いをして出来上がった柳沢吉保の屋敷跡である。

その柳沢吉保は、先祖は武田信虎、信玄親子に仕えていた家柄で、一節によると甲斐一条家の末裔であるというが、この時代は、武田信玄の弟の一条信龍を祖とするらしい・・・

その柳沢吉保は、元の主家である武田家を直参旗本として復活させているのだ。

 

話を戻すが、小豆坂合戦というがあった。

第一次小豆坂合戦は、天文11年(1542)に岡崎城付近の小豆坂という坂で戦があった。

織田信秀は、岡崎攻略をしていたし、この戦いの相手は、松平と今川の連合軍であったが、これに大勝している。

第二次小豆坂合戦は、天文17年(1548)に起こっているが、実際は合戦が有ったのか無かったかも分かれているが、あっとすると、やや今川勢が優勢で決着したらしい。

それから6年後の天文23年には、信長公が自ら村木砦を1日で落としているのだ。

ここまで織田方2勝1敗である。

今川義元相手に、2勝1敗であると言うことから、織田家はそれなりの大名家であったいえる。

岡崎は、丁度尾張と駿府の中間に有る緩衝地帯でったのだ。

有力な大名家が無く、ちんまい松平家が日和見的に、時には織田方、時には今川方と付いて生き延びてきたのだ。

一連の合戦を仮に岡崎合戦としたら、天文11年から6年ごとに第三次合戦まであった。

桶狭間の戦いは、実は第三次岡崎合戦から丁度6年後なのである。

ここから考えると、今川義元は、上洛でなく第四次岡崎合戦を仕掛けたのではないか?という新説があるのだ。

 

今川側から観れば、岡崎合戦は一勝二敗であるから、今度こそ織田勢を天白川より上(地図上で)に押し上げたかったと思われる。

この時、信秀から信長へと家督相続があり、信長を見限ったやからが、大高城、鳴海城、沓掛城を手土産に今川が手へ寝返っていた。

詰まり、実質知多半島を今川が支配する状況となっていた。

このまま織田勢を天白川より押し出せば、知多半島は今川方に渡ってしまうから、信長は鳴海、大高両城の近くに砦を築いた。

目的は、鳴海、大高両城を兵糧攻めにするためで有った。

補給隊を攻撃して、補給線を断つ目的で有る。

地図を見てみれば一目瞭然で、もし知多半島が敵に落ちれば、名古屋港は危険にさらされてしまう。

港の富で成り立っていた織田家には、正に経済的打撃になるのだ・・・

今も昔も戦争とは、経済活動の一部なのである。

 

信長公が行った関所撤廃で楽市楽座を儲けたのは、他者への金の流れを止めて、自分が儲けるためであったのだ。

この当時の関所とは、現代風に言えば、道路の料金所であり、有力な寺社等が道路に勝手にバリケードを作って金を払わねば通さないとしていた。

現代の平和呆け日本と違い、支払わずに通ろうとすれば殺されたのだ。

それも坊主に!!!!

この当時の寺社は、現代と違い皆武装していたのである。

義経のお供の弁慶を思う描いて欲しい。

源義経で思い出したが、頼朝公は、先ほどの甲斐の一条家を含む甲斐源氏を弾圧していた!!!

 

皆さん、学校で教わった年号をただただ暗記させられらた歴史より遥かに楽しいでしょう?

大切なのは年号でなく、歴史の時系列と登場人物の関わりである。

頼朝公により弾圧された一条家、しかし、家名が残り、約500年後に日本を治めた柳沢吉保が誕生してくるのである。

彼の登場により、歴史から消え去った名門武田家が、旗本としてでも家名を復活させているのである。

歴史とは、一つ投げた石が、転がり連鎖反応を起こして行くようなものであり、我々自身もその家中にあり、歴史を紡いでいるとこであり、それが面白いのである。

 

信長公は、楽市楽座で織田家の財政を潤わせたが、そレト同時に庶民生活も活気づかせた。

輸送時の無駄で高額な通行料が無くなれば、当然価格も下がる訳である。

それが顕著だったのが、油である。

それまで高価な荏胡麻を"夜の灯り"が、これを菜種油にして庶民でも手が届くようにした。

これが、どれ程革命的な出来事であったか、考えて欲しいのだ。

 

今週、久しぶりにMOTORHOMEで旅をしてきた。

晩ご飯は、チャー様に合わせて17時半頃であり、そこから酒を飲んで映画を観ていると、チャー様がベッドに行きたいと主張を始めた。

時計を観ると21時半である。

都心いて午後9時半といえば、「夜はこれからだ!!!!」となるが、キャンプ場やRVパークでは、寝る時間である。

人間は、お天道様は共に起きて、共に寝るように出来るとしみじみ思うってしまう時である。

 

昔は、庶民は灯りが無かったから、お天道様と行動を共にしていた。

そこへもって、菜種油が安く市中に出回ってきたらどうなる?

そうです。

夜の世界が出来たのだ!!!

飲み屋街や色街の出現である。

織田家の家計は更に潤う訳だ。

商人からの税は、昼間だけだったのだが、更に高額な税が花街から上がってきたのだ。

 

金で常備兵を雇うのだって、この時代からすれば革新的な出来事であったのだ。

こうして時代の異端児織田信長公によって、日本は生まれ変わろうとしていたのだ。

 

つづく