最近NHK大河ドラマ"麒麟が来る"を観ている友人が多く、会うとその話題となるのだが、「麒麟が来るはフィクションだから」と私は説明するのだ。
比叡山焼き討ちだが、明智光秀が作戦立案したが、坊主皆殺しでなくわざと逃げ道を作っておいたという。
それを後から信長公に叱咤されたというが、もし、信長公の命令に違反したら叱咤どころでなく間違いなく打ち首である。
何故から、織田軍団の規律は、信長公の"命令は絶対"だからであり、除外者を作っては軍団の示しが付かないからである。
もし、本当に逃げ道を作っていたら、間違いなく公の指示があった筈である。
事実、第二次世界大戦中に、ナチスのユダヤ人迫害から多くのユダヤ人を日本経由で逃がした英雄杉原千畝(すぎはらちうね)氏だが、これは黙ってやったわけでなく、首相東条英機閣下にお伺いを立てていた。
当然東条英機閣下は、陛下に奏上していた。
陛下の御裁断は「人道的に計らえ」であったという・・・
当時のリトアニア領事代理の杉原千畝独りの功績でなく、陛下の御聖断があったからである。
多くの日本人の誤解は、「戦国時代は群雄割拠していて皆が天下を目指していた」である。
そして、戦国時代は日常茶飯事に戦をしていたと思ってる。
大きな勘違いは、戦国時代とは、戦に疲れた室町守護大名が力を失い、彼らの家臣達が主家に代わって独立をしていって、その結果、日本全土を巻き込むような大戦がなくなった、ある意味平和な時代であったのだ。
室町時代は江戸時代と異なっていて、"平和"ではなく、法でなく力の時代であった。
但しタブーはあった。
禁裏に手を出すとか、主家を殺すとかである・・・
信長公も実は、尾張の守護職であった斯波義銀(よしかね)を殺さずに追放している。
当時、織田本家の織田信友が守護職斯波義統を殺したため、嫡男義銀は信長公を頼った。
信長公は守護職殺害者誅伐を旗印に、清洲城の織田本家を滅ぼしている。
当初は信長公も力が無かったため、外交的配慮から義銀を隠居という態で清洲城に住まわせ、隣国三河の名門吉良義昭と同盟を推進させ対今川に備えようとしたが、会談の席で席次で揉めたらしい・・・
吉良家は足利一門中で筆頭であり、本家に人が居なくなったら吉良家より公方を出すとまで言われていた。
対する斯波家も足利一門で名門であった・・・
信長公はこの愚かな遣り取りをどう見ていたのであろうか・・・
因みにこの吉良義昭の子孫が、忠臣蔵の吉良上野介義央である。
江戸時代足利一門は、徳川家のオモチャであった・・・
徳川家は、新田家の分家の家系であるから、足利尊氏対新田義貞の敵討ちであった・・・
話が逸れたが、戦国時代、群雄割拠していない証拠ではないか?
大義名分は、当時の法違反である。
主家殺し野郎は、首を討たれても仕方が無かったのだ。
後の話だが、信長公は足利義昭も殺さずに放り出した・・・
"信長を討て"との御内緒を多くの大名家に出しただから、私的にはさっさと討てば良かったと思ったのだが、信長公的に考えれば、一方的に戦を始めて占領するのは、悪評が立つが、"相手から攻撃してきたら根絶やし"という方が当時の世論の受けが良かったのかも知れない。
室町守護大名の領土が、今の県数個分あったりすから、兵力財力も今とのちんまい県とは比べものにならなかった。
そもそも、過疎問題なと無かったし・・・
しかし、どうしても農民中心に考えると、人口爆発には成り得ない。
親の田畑は息子一人が継ぐのであったから、あぶれた兄弟は都市部へ移動するしかなかったはずだ。
昔の都市(京)意外は、貨幣は使われていなかった。
恐らくお米の目方を標準として、それで鯛は米何合とか、鶏は米何合と言う具合だったと思う。
信長公は城下に布令を出している。
「物々交換禁止、貨幣を使え」である。
室町時代は最初から最後まで戦で初まり戦に終わった時代であったから、時代劇のように「戦の無い世の中」「女子供のが戦に巻き込まれない世の中」とかいう概念が存在していない。
前に読んだのだが、戦国時代に子供だった尼僧の回顧録に、男衆が運んできた首を綺麗に化粧して、天守一階に並べていたという。
女の仕事は亭主や息子が討ち取ってきた首を少しでも身分があるように見せるために化粧していたという。
戦国時代は、貴賤老若男女を問わずに、懸命に生き延びた時代であった。
そして、我々は彼らの子孫である。
今の滅茶苦茶な日本をどうするのか、真剣に考えねば、数百年後の子孫に何と思われるのか?
つづく