"姉川の戦い"とは、織田・徳川連合軍対浅井・朝倉連合軍が、姉川を挟んで対峙した合戦である。

この敗退により、浅井、朝倉の命運は尽きたのだ。

 

偶々YouTuberで誰かが、姉川の戦いの解説をしていた。

織田軍は本陣を突かれたとか、徳川軍は朝倉軍と対峙していて徳川方の死者が数人で、朝倉方の死者が100人ちょっとだったとか・・・

徳川軍は戦う気が無かったのか?とかであるが、これは全く兵法を理解していないから出来る解説である。

 

そもそも、元亀元年(1570)当時、織田徳川の同盟は、主従関係では無く、あくまで対等(兄弟の杯)であって、兄貴が信長公で弟が家康公である関係だ。

 

姉川の戦いは、そもそも、約三ヶ月前の織田、徳川、浅井軍で朝倉討伐侵攻作戦中に、浅井が裏切り所謂"金ヶ崎の退き口"が発端であった。

信長公は、一騎駆けで琵琶湖の西を通り京都に逃げたのだ。

私は、この時浅井長政は裏切るつもりは無かったと思う。

長政が信長公と手を組んだのは、"新しき世"のビジョンを共有出来たからであったと思うが、オヤジの久政が古い人間で、「朝倉に矛先を向けられない」と旧来型の思考であったと思うから、最初に打って出て既成事実を作り長政を引き込んだと筈だ。

 

問題は、徳川軍と朝倉軍だが、朝倉軍を率いていたのが朝倉一門の朝倉景健(かげたけ)であった。

徳川軍は3000人から5000人(諸説あり)で、朝倉軍は8000人だっという。

家康公の仕事は、朝倉軍を討つことでなく、動けなくすることである。

浅井軍は5000だから、朝倉が動けなければ織田軍はそれで良かったのだ。

それに、家臣でないのだから、「家康殿に家臣を死なせてまで戦え」とは言えないし、家康公の最大の役目(信長公から見て)は、東の敵の足止めである。

これは武田、今川、北条に背中を討たれないためであった。

詰まり、徳川軍の兵の消耗は結果、織田軍の為ならないのであるから、最低限の戦いで良かったのだ。

だが、朝倉軍は違う。

「浅井家が滅びれば、次は自分だ」という危機感が無かった。

まるで現代の日本政府と同じである。

だから、朝倉景健は、徳川軍を討つべきであったのだ。

 

「浅井軍は織田正面が総崩れになったので、信長公の本体まで肉薄した」との解説・・・

 

紀元前216年8月2日に起こった"カンネーの戦い"を知る必要がある。

これは、何処の士官学校でも教える戦術である。

第二次ポエニ戦闘で、イタリア半島に入ったカルタゴの猛将ハンニバルが、カンネーにおいて、ローマ軍団を殲滅した戦いであり、人呼んで"包囲殲滅作戦"である。

アレキサンダー大王が何故強かったか?それは、この包囲殲滅作戦を編み出したからである。

古代ギリシャ時代から戦とは、重装歩兵による打ち合いで、これは横一直線になりお互い戦い合ったのだが、アレキサンダーは中央部隊を後退させて側面から軽装騎馬隊(この時代、欧州には鐙が無かったから騎馬隊は軽装しか出来なかった)で敵部隊を囲むのだ。

カンネーの戦いもカルタゴ軍に包囲され、ローマ軍は逃げ場が無くなり結果圧死してしまう。

"押し競饅頭"の強烈やつである。

 

詰まり、織田軍はこの戦法を使ったのだ。

中央部隊が崩れたように見せかけて、後退していき、敵はそのまま進んでくるが、別部隊が側方、後方を塞ぐのだ。

もし、朝倉が攻撃を仕掛けていれば、9時から11時(戦を上から見て)方角の織田軍の後方を突けたが、そうさせないために徳川軍が居たのだ。

そこで、逃げ道を完全に塞げば、浅井軍は皆殺しであったが、敢えて逃げ道を作っていたのだ。

何故か?

それは、浅井家の有能な武将が欲しかったからである。

もし、ここで皆殺しに合っていたら、後の藤堂高虎侯もいなかった・・・

 

ハンニバルは打倒ローマ帝国であったから、皆殺し作戦だったし、アレキサンダー大王もペルシア皆殺し作戦だったから、完全にフルボコであったが、日本は同一民族であったし、負ければその家臣は、新しい戦力であった。

将棋とチェスの違いである。

 

兵法を知れば戦国時代の戦が100倍理解できて楽しいはずだ。

"関ヶ原の戦い"も、徳川方の大名家が西軍内に数多くいたから、実は"鶴翼の陣"が完成していたのだ。

石田三成は、布陣時に既に負けていたのだ・・・

 

こうして浅井家は滅び、次に朝倉家も滅んだ・・・

朝倉方に少しでも兵法を理解できている武将いれば、歴史は変わったかも知れない・・・

 

第一の兵法は"戦わずして勝つ"である。