先日、奈良市伊勢方面へMOTORHOMEで行ってきた。

今回は、東京を発して、中央道双葉SA泊、清里泊してから、湾岸長島SA泊、そして亀山から伊賀へ入った。

丸亀ICで高速を降りて国道25線に乗り、トンネルを抜け伊賀国に入った途端、一面の霧であった。

正に忍術に掛かった気分でった。

中瀬ICでバイパスを降りて、伊賀上野へとむかったが、ここで給油をした。

セルフかと思ったら店員さんが、やってくれる昔ながらのGSであった・・・

前に軽キャンパーのYouTuberを観ていたら、独り旅で埼玉県から下関往復であった。

彼は単価が高かったが、「店員さんとのおしゃべり代だと思えば安い」と会話に飢えていた感を語っていた。

その時、私も少し分かった気がしたが、20代のお姉さん店員さんはMOTORHOMEを初めて見たらしく、会話が弾んだが、後で考えてみたら「くノ一かも・・・」と背筋が寒くなった自分に笑えた。

 

伊賀上野城が素晴らしかったが、天守閣は昭和になってから再建されたらしいが、上野城に天守があったのは僅かな期間だけで成ったのだから、私的には二の丸再建をして欲しかった。

上野城の中に城代の屋敷跡とあったが、彼らは勘違いしている。

城代は城代でも、城代家老ではなく殿様を指している言葉である。

そもそも、学者共が馬鹿なのは、自分が領主だったら城内の一番より場所になんで家臣を住まわせる?と思わないのか?である。

前にも書いたが、日本中の城の本丸は公方様の為の御殿である。

この考えは、日本中の城の持ち主は上様で、大名は領地、城を預かっていることうことであるから、上野城城代の意味は、上様に代わって城を管理しているという意味であるから、藤堂の殿様を指しているのだ。

 

伊賀上野を後に一路"柳生"を目指した。

しかし、ナビ様の暴走で恐ろしい道へと迷い込まされた。

奴には車の大きさを入力しているにも関わらず、平気で狭い道を通すのだ。

今回も国道163号線を西へ走しらせてから、県道4号線を南進させられたが、この県道4号線が軽自動車でもすれ違いが難しい道幅なのに、2330mmの車幅のMOTORHOMEを迷い込ませるのか?と独り言文句を言いながら柳生の荘までの約3キロを頑張った。

 

市営駐車場のおじさんと会話したら「この車であの道を来たの?」と驚いていた。

これは芳徳寺といって柳生家の菩提寺であるが、元々柳生石舟斎(宗厳)の屋敷跡で、子である柳生宗矩が菩提寺にしたのである。

詰まり、宮本武蔵がここにやってきて、余りの恐ろしさにウンコ漏らしながら逃げ帰った場所である。

地元の人の話だと、柳生は城下町として発展しなかったのが悔いが残っているとのこと。

柳生家は今で言えば、公安警察長官にあたる要職であったため、参勤交代がなく常に江戸詰であったという。

それと一門を日本中の藩に入れて情報収集をし、独自のネットワークを持っていたという。

「ここは、上野、伊賀、柳生と忍びの三角地帯ですから」と聞くと恐ろしいかった・・・

伊賀と甲賀はお隣さん同士であり、忍術にも差が無かったらしいが、伊賀は忍術+"呪詛"があったらしい・・・

昔から都を追われた公家達が匿われた場所らしい・・・

今でもそうだが、呪詛は恐ろしい!!!

必要な情報は、本名と生年月日である。

だから、戦国時代大名家は決して本名は名乗らず、正確な生年月日も隠すのが常であった。

その名残は、日本人は相手の名前を呼ばずに渾名で呼ぶことである。

時代劇で「家康様」と平気で呼んでいるが、これは打ち首ものである。

秀吉様も有り得ない!!!

当然、信長様もNGである。

信長公ならば、最後辺りでは"右府様"(右大臣)か、上様であるし、秀吉殿下は、太閤殿下と呼ばれていた。

ちなにみ秀吉公は間違えである。

関白は準皇族であるから、殿下であって公ではない。

家康公は、存命中ならば大御所様、お隠れ後は権現様、神君と呼称されていた。

因みに"将軍様"と言っても命は無かった・・・

上様か、公方様と呼ぶのが正しい。

 

柳生の郷から山越えすれば、奈良の東大寺付近にである。

 

つづく