最近、濃姫に付いてや明智光秀に付いて、聴いてくる友人が多くなった。

NHK大河ドラマ"麒麟が来る"の影響らしい。

私のLAの友人も、故郷が岐阜らしく楽しみにしていると言っていた。

彼は、斎藤道三が息子斎藤龍興と戦った折の居城鷺山城の城内に実家たがると言っていた。

実家から見ると「何でこんな所に道三は籠もったのかな?」と思えるという・・・

 

信長の正室として濃姫が有名だが、実ははっきりした証拠がないのだ。

濃姫と帰蝶と鷺山殿と安土殿と呼ばれていた女性が、同一人物かも分かっていないのである。

濃姫が織田家の嫁いできたのは、天文18年2月24日(1549年3月23日)に古渡城に輿入れしたらしい。

濃姫は天文4年(1535)生まれであるから、この時14歳である。

信長は天文3年5月12日(1534年6月23日)生まれであるから、15歳となる。

この時の美濃国諸旧記に上総介殿に正室として嫁いで鷺山殿と呼ばれたと出ているらしいから、濃姫ではなく鷺山殿が正しいと思う。

濃姫と書かれているのは"絵本太功記"や"武将感状記"で、どちらも江戸時代中期であるから、その当時の人々に分かりやすく書いたと思われる。

今では家康様とか信長様とか劇中で呼ぶのと同じで、当時名前で呼んだら打ち首物であったことを忘れてはならない!!!

江戸時代なら誰でも"神君公"とか"権現様" と呼べば、徳川家康を指すのでこれが常識であった。

 

問題は、道三が死んで以降の"鷺山殿"の消息が分かっていないことである。

私も今回初めて知ったが、濃姫は織田家に輿入れしたのは、初婚ではかったという説があるらしい・・・

麒麟が来るはその説で書かれているという・・・

桶狭間の戦いは永禄3年(1560)であるから、信長26歳、濃姫25歳であった。

離縁説、早世説等々あるが、意外と信長が殺したのかもしれない。

この時代、生年月日や本名は、近親者しか知らなかったのだ。

四柱推命や陰陽道等々によって、生年月日と本名で星回りを見られてしまうし、呪詛も掛けられてしまうから、本名と生年月日は極秘であったのだ。

「今年は、敵国の大将が天中殺だから、攻撃だ!!!」という具合である・・・

事実、現代でも陰陽師は活躍している。

我が家も、新しい取引相手や仕事を任せる人の生年月日と名前で人となりを見させている。

これが、怖いぐらいに当たっているのだ・・・

 

私は斎藤道三が信長を気に入って"国譲り状"を書いたというのは、フィクションだと思う。

本当に気に入ったのなら、道三が直接美濃国を信長に譲れば良いことではないか?

突拍子もない遺言状なら、現代だって大騒ぎなのに、国を譲るって無理に決まっている。

信長の能力を見極めたのなら、間違いなく殺すはずだ。

「今なれ倒せる」と思ったに違いない。

信長側か見てみれば、地政学からいっても美濃は絶対に欲しいのである。

尾張だけだと四方を敵に囲まれていて状態であるから、飛騨山脈を背に濃尾平野を支配したいに違いないのだ。

美濃を手に入れる作戦立案をするならば、戦うしかないが、今のままでは勝てないと結論付けたに違いない。

斎藤道三と斎藤龍興は、仲が悪かったようだ。

それは、道三は主君土岐頼芸から妾の"深芳野"をもらい受けたが、その際身ごもっていたという噂があったようだ。

この当たりを巧みに信長突いて、美濃内乱へ発展させた。

戦う相手を考えれば、海千山千の道三よりも平凡な義龍の方が良かったのである。

そんな馬鹿な!!!と言われる人も多いと思うが、孫子の兵法を考えて欲しい。

戦わずして勝つ、それが出来なければ、出来うる限り相手の戦力を削ぐことである。

 

明智光秀の生まれも分かっていない。

私は本能寺の変の陰に徳川家康ありと考えている。

先日、ヒストリーCHでライバルシリーズとかいう番組の再放送を偶々観た。

豊臣秀吉×明智光秀とあった。

光秀謀反のきっかけは、四国征伐を控えていた光秀に、備中高松城水攻めをしている秀吉から、右府様に御出陣要請があってそれに応えて大軍を率いての中国遠征軍に加われて言われたことが、自分に秀吉の下に付けと言われてからだと言っていた。

しかし、これは見当違いも甚だしいのである。

光秀は信長に、「四国征伐は止めて、秀吉の指揮下に入れ」と言われたのならまだしも、「俺の先陣として行け」と言われたらこれに勝る栄誉はないはずだ。

現代風に考えれば、大きなプロジェクトの責任者である取締役が、調印式に社長の出席を願い出て、社長が専務を連れてきたのと同じではないか?

この時、専務は"降格"と思ったか?それとも、こんな大プロジェクトの調印式に私も連れてきて貰って感謝しますのどちらかは言う必要も無いことであろう。

 

光秀の生まれは、享禄元年(1528)説、永正13年(1516)説、そして天文9年(1540)説となる。

何故分かっていないのかというと、大名家でなく田舎郷氏だからである。

天文9年説だと、信長公より若くなってしまう。

光秀=天海僧正説の否定派は、光秀の年齢的な矛盾があると言うのだが、天文9年説ならば家康は天文11年生まれであるから、あり得る年となるし、天海僧正自身が100歳以上であったといわれているし、喜多院より前の足跡がはっきりしていないのである・・・

 

番組中で光秀派と秀吉派の共通の認識が、織田軍団の武将は疲労困憊状態であった事で一致していた。

私もそう思う。

光秀は、永禄11年(1563)から天正10年(1582)まで19年間戦いぱなしであった。

現代のように「有給をお願いします」とか「暫し休養を下さい」などと言えなかったのである。

 

恐らく、年齢も近いので徳川家康と馬が合ったと思う。

お互いの悩みの元が共通したのだ!!!

"織田信長"でった・

文字通りの滅私奉公で心身共に疲弊した光秀と、信長に命を狙われている家康である。

共通の敵を排除する計画を立てて、実行したのが"本能寺の変"であった。

 

真夜中に15000人の完全武装した軍勢を、内緒で京の市中に入れることは不可能である。

これは信長の命令が無ければ無理であった。

 

因みに、信長と光秀の仲は、周りが羨むほど良かったという・・・

 

"兵法は鬼道"とは、孫子の兵法に書かれている重要な文言である。

詰まり、兵法の基本は相手を如何に騙すかであるのだ。

我々の知っている武士道は、江戸時代の構築された物である。

天下太平の世に、騙し合いをしていては社会が治まらないから、仁義礼智信の五徳が武士道の根幹となったのである。

戦国時代は、生きるためなら何をしても良かったのである。

しかし、これは自分だけという意味でなはく、一族郎党である。

領主が転ければ、多くの家臣とその家族まで生死を彷徨わせてしまうからであった。

 

我々の先祖はその時代を勝ち抜いたからこそ、今日我々が生きているのである。

そのことを考えながら戦国世に思いを馳せるのは良いことであろう。