前回は地政学から観た信長公であった。
皆さんが信長になったつもりで、GoogleMapを観て欲しい。
広大な濃尾平野があるが、父信秀の時代は、名古屋市とその周辺の小さな範囲である。
清洲城は織田家本家の居城であったから、信長が相続したときは入っていなかった。
名古屋港周辺は埋め立て地であろうから、実際はもっと内陸まで海であった。
必要なものは衣食住であり、このうち一番は食である。
広大な濃尾平野を手に入れたら、先ずは田畑の整備であるが、更に大切なことは戦で荒らされない田畑なのだ。
北は飛騨山脈が控えているから、いきなり大軍が攻め込んでくる恐れは無かったはずだ。
東は徳川家があるから今川、武田、北条からの直接攻撃も無かった。
こうなると当面の強敵は存在しなかったから、内政重視出来たはずだ。
豊かな湊は、海産物や物資の輸送にも適していたから、織田家は裕福であった。
ここで理解せねばならないことがあって、戦国時代は戦ばかりの世の中だと思っている人が多いが、"戦国時代"とは後世の人が付けた呼び名で、当時の人々は室町幕府だと思っていたはずだ。
太平記の辺りでも書いたが、室町時代は兎に角戦の時代であったし、設立当初は守護大名が驚くほど大きかったので、戦の規模が違ったのだ。
今の数県がひとつの大名家であった感じである・・・
激戦をし過ぎて守護大名家が衰退していき、その家来筋が主家を無視してやっていたのが、今で言う"戦国時代"であるから、今の郡や市町村の小競り合いが実情であったのだ。
家来筋が主家を追い出すから下剋上なのである。
しかし、下剋上にもルールがあったようだ。
民の苦しみを顧みず、遊興にふける大名とか、家臣を蔑ろにしている大名とか、皆が「確かに守護が悪い」という大義が無ければ、下剋上は完成しなかった。
それと、兵力は自前の領民であった。
だから、領地の大きさに比例してしまうのが当時の常識であった。
詰まり、兵士に給金は無く、当然全て持ち出しであった・・・
まあ、戦時は"食"は支給された。貧乏すぎで食べれなければ働けないからである・・・
だから、大将首を上げれば褒美は思いのままであったのだ。
モンゴル軍の強さの秘訣は、テント等の移動部隊を除いては、全員馬に乗っていて、乗り換えよう野馬を数頭引き連れていたから高速移動が出来たし、一族郎党連れての移動であったから、野営地が即村であったらしい。
これも全て自前(自腹を切って)で用意して、戦をした。
だから、ヨーロッパの町を落としたら略奪品が、そのまま個人の所得となったのだ。
戦わずして町を開ければ、運上金を支払うことで命は助かったらしいが、少しでも抵抗したら男は皆殺し、女性は全てレイプして子供は奴隷として売られたのだ。
モンゴル人の喜びは、家族を殺された女性を犯して、敵の子を産ませ、その子を育てながら絶望の"涙"を見ることらしい・・・
対馬の人々は元寇の折に皆殺しになったではないか!!!
男と老人は皆殺し、女性は裸にして陵辱した後に両手に穴を開け、船のマストに吊したと記録有る・・・
奴らを撃退した北条時宗公、「貴方は日本の英雄です」なのである!!!
日本の戦は、殿様の首を取ったら終わりであった。
侵略後の領民は大切な民だからであるから、日本には城壁都市がないのだ。
事実、関ヶ原戦後に、西軍に付いた鳥取城を亀井茲矩(かめいこれの)と竹田城城主斎村政広とが攻めたときに、斎村は城下に火を放ったが落城した後に、神君公(徳川家康)から切腹を命じられたのだ。
因みに、越後の長尾景虎軍は、"義"の為に戦うとオナニー的な事で家臣を戦にかり出したために、謀反が多かったらしい・・・
戦費持ち出しで、見返り無ければ怒りが爆発するのは決まっている!!!!
織田信長公の傑出した点として、重商主義であった点だ。
戦国時代は、商人がいなかった。
商売人が定住して店を構えられるのは京都ぐらいであった。
四日市、六日市、十日市などという地名は、日本中に多くある。
これは領主が、「毎月4日に市を開け」と命じたから城下町等に市が開いたので、それ以外の日は商店などなかったし、そもそも京いがいでは貨幣は使われてなく、物々交換であったようだ。
その証拠に、信長公が出した法に、買物は物々交換で無く貨幣を使うようにとあるからである。
貨幣経済を尾張と美濃とで始めたのであった。
関所撤廃と楽市楽座の奨励である。
関所とは今で言う通行料をとったいた料金所を破壊したのである。
当時、寺社は門前の道にバリケードを勝手に作り、通行人から通行料を取っていたのだ。
払わなければ、僧兵に斬り殺された・・・
だから、品物が高額になったのだ。
通行量を上乗せするからであるが、ここで一番大きかったのは菜種油であった。
斎藤道三は油売りであったと言うが、彼の時代は荏胡麻油でこれは高額で、庶民の手には入らなかったが、菜種油は安価だった(関所を破壊したから)ため、皆に行き届いたという。
これで何が変わったか?
私もMOTORHOMEで旅に出るが、旅に出ると面白い現象に陥る。
私は通常夜11時過ぎに寝て、朝6時頃に起きるのであるが、旅に出ると、夜は8時過ぎにはベッドに行き、朝は5時前に起きるようになる。
詰まり、お天道様が登る頃に目が覚め、沈むと眠くなるのである・・・
それまでの、日本人の生活は、お天道様と同じに行動していたのである。
何故か? 夜は真っ暗で見えないからである!!!
それが、菜種油の出現と共にそれまでの生活様式が180度変わったと言えるのだ。
夜の世界の出現である!!!
暗くなってから、店先や屋内に灯が灯ると夜の商売が出現して、金の流れが一気に倍以上と成ったはずだ。
古今東西、夜の遊びには金に糸目を付けないではないか???
おねえさんの居る店に行けば、通常800円くらいの飲みのが数千円、数万円となっても払ってしまうではないか!!!
那古野や清洲の城下町に"ネオン街"が出現すれば、近隣からも人々が集まってくる・・・
そうして、織田家には多額の金が集まったのである。
だから、誰も思いも付かなかった事が出来たのだ。
それは兵士を金で雇うことである。
戦国大名の兵力は、領民であったが、信長の兵士は日本全国の百姓の次男以降となるから、ほぼ無尽蔵であった。
農家は田畑を守るために長男が相続すれば他は無用となる・・・
「このたわけもん!!!」の語源は"田分け"で他の兄弟に田を分けるはずがないから、馬鹿なことを言うなという意味になったらしい。
日本全国に居たあぶれ者は、金を求めて那古野を目指したはずだ。
その"客寄せパンダ"が木下藤吉郎であったと私は思う。
いくら誰でも手柄次第で城持ち大名になれるとは信じられないが、当人が居れば皆の頑張りも違ったはずである。
こうして戦力補充に事欠かなくなれば、負けるはずがないし、一番大きかったのは、田植え稲刈りを気にせずに一年中戦える軍隊になったことである。
その他の大名はそうはいかなかった。
田植えと稲刈りの時期をずらして戦をせねばならなかった。
だから、良く織田信長と上杉謙信のどちらが強いか?と言う問いには、私は迷わず織田信長だと堪えるのだ。
確かに魚津城攻略で織田方は数千人の死者を出したが、上杉の数千と織田の数千人とは訳が違う。
武田、上杉の数千人の兵士の死は、領民の死で、直ぐには補充が効かないが、織田の数千人は直ぐに集まる。
そして、ないより戦没者の補償もないし、遺族年金もなかったから、織田家の出費は変わらなかったのだ・・・
重要なことは、織田家の有能な将が死ななければ良かったのであった。
つづく