地政学をご存じか?
自分の居る地域を中心として、地理を鑑みて経済、軍事を考えることである。
信長公が跡目を継いだときは、ざくり尾張国の1/3あるかないであったが、那古野は湊を押さえていたために裕福であった。
PS4で信長の野望創造戦国立志伝が好きでよく遊ぶ。
尾張国からスタートすると、先ずは尾張国を統一することから始めねばならない。
その次が、北は斎藤家、東南は今川家があり、おいそれとは手が出ない。
中津川から飯田方面に攻めれば、自国が東西に伸びてしまうし、下手をすれば武田家との戦いになる。
先ずは、国を富ませてから兵力増強せねばならない。
その為には、南西の方角の津や伊勢志摩方面を目指すしか無い。
長野家や北畠家を滅ぼして、そのまま領地とする。
立ちはだかる強敵は、伊勢長島の一向宗である。
史実は、北の斎藤家とは婚姻で同盟を結んだが、実際は道三の娘の濃姫とはそれほど仲が良かったとは思えない。
既に側室の生駒がいて、彼女が産んだ男児が後の信忠である。
しかし、斎藤道三は息子義龍によって殺され北が再び危険となった。
その時に同母弟信勝が謀反を企てたがこれも打ち破り、信勝に味方した清洲の本家を打ち破り、事実上尾張一国を手に入れた。
そして、居城を那古野から清洲に移したのである。
これから2年後に今川義元が上洛軍を率いて尾張にやってきたのだ。
先ず、わざと尾張国内の砦を攻めさせ、兵力の分断に成功した。
今川軍は3万とも5万とも言われているが、私は精々2万だと思う。
5万というとは、荷駄係等の非戦闘員も入れての数字ならあり得る。
信長は当初、籠城するとか討ち死にとかのらりくらりとしていたのは有名な話だが、何故か?
彼は当初から打って出る作戦であったにも拘わらず、何故籠城と言ったのか?
答は簡単で、家中に今川方のスパイがいたからである。
父信秀に毒を盛った奴も捕まっていないのであるから、当然慎重になったのも頷ける。
太平記を観て分かったのだが、この頃の武将は裏切るのは当たり前であった。
武将にも家族家臣がいて、それらの生活が掛かっているから、当然勝ち馬に乗りたいのである。
裏切りを出さないために(最後に残った奴らは死に物狂いで戦うはずである)、最後まで黙っていたと思う。
それと今川義元が餌に食らいつくのを待ったと思う。
信長公は、決して一か八かで出陣したのではなく、勝つことを確証して出陣したのだ。
そして決して奇襲ではなく、正面突破して見事勝利したのだ。
その時の気象条件から、昼過ぎに雨が降ることまで計算していたと言うから、見事な勝ちっぷりであったといえる。
当時の道は、今のように舗装されていないから、雨が降ればぬかるみになるが、雨が降っても土が硬い場所は自国領なので信長に分あった。
後から駆けつけた今川軍は、ぬかるみに足を取られ身動き取れなくなったという・・・
さて、美濃が手に入ったら、三河より東は徳川家康に任せて、信長公は"京の都"への道を確保する。
地図を見れば明らかだが、今日へ行くには関ヶ原を超えて米原から琵琶湖の南岸を進むか、伊賀越えするかだが、現在、伊勢湾岸道から草津方面に抜けられるが、ここが山奥過ぎるのだ。
高速道路でも田舎越なのだから、500年前なら・・・
軍団の移動を考えれば、当然米原ルーとなる。
すると立ちはだかるのは、近江の浅井家と六角氏である。
地政学の見地から見ても、信長公は正に正道を行っているのが分かる。
足利義昭を奉じて京入りしたら、次なる敵は石山本願寺である。
ここは今の大阪で、信長公は来たるべき新秩序の折には、自らの居城と日本の中心として大坂を考えていたはずである。
だからこそ、本能寺の変の後、羽柴秀吉はいち早く大阪城を築城できたのである。
しかし、その構想のために本願寺と11年にも及ぶ泥沼の戦いとなったのだ。
信長公は政教分離を果たした功労者だが、決して宗教弾圧をしたわけではない。
もし宗教弾圧をしていたら、今日、比叡山延暦寺を我々は目にすることはなかったし、浄土真宗も消えていたであろう・・・