慶長5年と言えば、関ヶ原の合戦である。
俗に、“天下分け目の合戦”とか“徳川対豊臣”の戦とか言うが、これは全て間違っている。
何故そうなのか⁉️
もし、西軍に豊臣秀頼がいたら西軍が勝っていたとか言輩もいるが、それは絶対にないと言える。
そんな事したら、東軍が死に物狂いで豊臣秀頼奪還に走ったはずだ。
豊臣政権の組織は、中核が五大老、五奉行であった。
五大老筆頭は徳川家康公で、五奉行筆頭と言えるのは石田三成と言える。
これを現代風に置き換えれば、五大老は大臣、五奉行は省庁の事務次官と言える。
“天下分け目”と言えない理由だが、もし天下分け目の大戦を戦わなければならないとしたら、それは勢力が均衡している場合で一か八かの賭けにでる場合の筈だ。
石田三成側からすれば、一か八かだが、徳川家康公からすればどうにでもなる事案となるこら、天下分け目とはなり得ない。
多くの者が見落としているが、関ヶ原の合戦は、豊臣政権内の内紛であると言うことだ。
先程の現代で考えてみれば一目瞭然である。
大きな省庁として、仮に財務省か厚生労働省の次官が、内閣総理大臣が気に入らないから、反内閣を募って、内乱を企てた事と同じだ。
そうなれば、内閣総理大臣は指揮権で自衛隊を投入して鎮圧する筈だ。
徳川家康公は、今でいう内閣総理大臣にあたるから、豊臣政権下で指揮権発動できる立場である。
例えば、現代、内乱で鎮圧したが国内制度がへたっていたら、内閣総理大臣が天皇陛下に奏上し、陛下から幕府を開けとの勅命を受ければ、新政府が出来上がる。
要するに、どんな政府であろうが、国民が安寧に暮らせることが重要なのである。
その結果は江戸時代をみれば一目瞭然であろう。
明治にドイツから将軍が、関ヶ原の布陣図を見て、「勝ったのは西軍だろ?」と言ったという。
古くは、カルタゴの猛将ハンニバルが編み出し、紀元前216年の“カンネーの戦い”が有名だが。
カルタゴ軍は、2倍のローマ軍を包囲殲滅してしまうのだ。
これは士官学校では必ず教える戦術であるという。
その喩えからいっても、東軍は負ける筈だ。
しかし、最初から小早川秀秋が東軍だったら?と考えると、西軍が包囲されている。
私は間違いなく小早川秀秋は、最初から東軍であったと確信している。
話を少し戻すと、“内閣総理大臣”である徳川家康公は、間違いなく一石二鳥、三鳥を狙って罠を仕掛けた筈だ。
それは将来的に徳川政府樹立の障害になる者共の抹殺計画である。
筆頭は豊臣秀頼だが、これは直ぐには出来ないから、手足をもぐ事から始めた。
皆さんも何らかの組織に属していると思うので、自分を徳川家康公として考えてみれば、真実は見えてくる筈だ。
石田三成も馬鹿ではない。
自分の命、家族の命、家臣の命、それらの家族の命が掛かっている。
流石に1:9では動かない。
なら“見せ掛け”6:4ならば動くと、徳川方は考えた筈だ。
だから、徳川家康公の命で西軍に入り込む輩が多かった筈だ。
『兵法は詭道なり』である。
更に言えば、現代の多くの人も騙し続けられているのが、徳川秀忠公の関ヶ原遅参事件である。
秀忠公は、精鋭3万を引き連れ江戸を経ち中山道を行ったが、途中上田で真田とぶつかり、結果遅参と言う大失態をした。
本当か?と何故学者は疑わないのか⁉️
徳川家康公となって天下を俯瞰してみれば分かる。
関ヶ原で両軍がぶつかり合い多くの死傷者が出た筈だし、又、東軍からの裏切者にも注意が必要である。
だから、東軍の背後に徳川精鋭3万が必要だったのだ。
しかし、もし無傷だとしたら、世間はどう思うか⁉️
真田家のその後の躍進をみれば、答えは自ずと見えてくるだろう⁉️
そう、徳川と真田は芝居を打ったのだ。
真田の智略は天下に響いているから、若輩の秀忠が翻弄されても仕方がないと世間は思うし、420年後の現代まで騙し続けているではないか‼️
この戦いで徳川方は、来たる政権に不必要な輩の排除と排除リストを作成した。
では、江戸時代の始まりだが、慶長8年に右大臣と征夷大将軍の宣下を受けている。
しかし、「今日から江戸時代の始まり」との宣下がないから、実質は関ヶ原後からと考えるべきである。
何故なら、関ヶ原後からは、内閣総理大臣の職権を超える権力を手中にらしたからである。
この時から既に豊臣政権は倒れたと言える。
司法権、徴税権は徳川が持っていたのだなら‼️
因みに、関ヶ原で踏み荒された田畑はちゃんと保証していたので心配無用。
現代よりある意味手厚いかもね
