織田信長公は、石山本願寺や比叡山焼討ち行った。
現代人にすれば、お寺を焼いて坊主を皆殺しって酷い、悪逆非道と考えがちである。
信長公は、坊主、女子供4000人を皆殺しにしたと言われている。
しかし、ここで考えて欲しい。
女人禁止の比叡山に、何故女子供がいたのか?である。
これは坊主どもの妾とその間にできた子供である。
“信心深い”信長公にしてみれば、仏罰を与える意味も込め、この気に一気に比叡山勢力を根絶やしにする必要があったのだ。
我々の想像する坊主は、江戸時代以降の坊主であって、それまでは“武蔵坊弁慶”の様な出立の僧兵が多数おたのだ。
寺は寺町に勝手に税を奪ったり、道にバリケードを作って通行料を徴収していた。
逆らおうものなら、僧兵に殺されてしまったのだ。
信長公の比叡山焼討ちは、宗教弾圧だと言う輩もいるが、もし公が宗教弾圧していたら、今日我々は比叡山延暦寺を見ることは出来なかったはずだ。
石山本願寺は、全国で一向一揆を組織していたテロリストの総本山であった。

織田信長公は、壮麗な安土城を作ったが、馬鹿学者はこれが信長公の創りたかった城だとかなことを言っているが、これはあくまで仮城であって、本当は石山本願寺の跡地に巨大な大阪城を築く計画であった。
公が日本統一してら、次は明国成敗でアジア制圧作戦を立てていた。
世界がポルトガルとスペインが征服する前に、日本は出来るだけ広い地域を抑える必要があった。
ここで一言、スペインもポルトガルも大した国では無かった。
何度も言うが、奴らが束になっても敵わない帝国が、ヨーロッパと小アジアにあった。
その名はオスマン帝国であった。
オスマン帝国が怖いから、奴らは陸路でなく海路でインドへ向ったのだ。
騙されてはならない。
しかし、当時、世界最強の軍隊は、日本の織田軍であったのは間違いない‼️

話を戻すと石山本願寺と信長公は役10年戦ったが、最終的に信長公の勝ちであった。
最初から話し合いで立ち退いていれば、どれだけの人の命が助けられたことか‼️
石山本願寺は、私兵も抱えていた事を忘れてはならない。

信長公以前にも、比叡山を焼いたお方がおわした。
室町幕府6代公方足利義教である。
そう、くじ引きで公方になった人だ。
くじ引で選ばれた=ラッキーではない。
「神仏の御意思だ‼️俺に逆らうな」となった。
凄い強い政治家であって、今の馬鹿政治家とは比べらられないレベルであったと言える。
この方も比叡山を焼いたが、半分だったらしい。
信長公は山一つ焼いたが、義教公は半分だったから、比叡山の勢力は盛り返した。
この頃の比叡山は、酷かった。
強訴といって、神輿を出してきて、京の町を打ち壊し火をつけて燃やしてしまったし、帝にも反旗を翻していた。

その前は、平清盛だが、彼は南都焼討で、東大寺、興福寺を焼いた。
何度も言うが、今日の東大寺と興福寺ではない。
要塞化した寺に、僧兵数千がいたのである。
その武力を背景に政に口を挟んでいたのである。
戦国時代までの、仏教は殺人集団だったと認識しておかないと、当時の社会が理解できない。
因みに、寺同士も殺し合いをしていた。
今の暴力団抗争と同じである。

比叡山を焼討ちした、信長公も義教公も共に家臣に暗殺されている。
これって仏罰か⁉️
“触らぬ神に祟りなし”である。