源頼朝と言えば、鎌倉幕府を作った人であるが、実は物凄い政治家である。
なぜ、この様な人が現代に現れないのかが残念でありる。
何が凄いのか⁉️
彼こそ、日本で唯一革命を起こし成功させた人であるからだ。
明治維新だって、と言われる人も多いが、明治維新は、支配階級の武士同士の戦いであった。
しかし、鎌倉幕府は、犬として扱われていた武士が、支配階級の貴族を凌いで、朝廷をも支配下に置いたのが凄い。
それまで、武士には土地の所有権は無かった。
貴族階級のみが土地の所有権を有していた。
これを平家から奪い取った三種の神器(草彅の剣は紛失)と引き換えに、土地の所有権、徴税権、司法権を朝廷から鎌倉幕府が奪ったのであった。
三種の神器が無ければ、天皇は即位が出来ないからである。
今、昔録画した“炎立つ”を観ている。
俘囚と呼ばれた東北地方の前九年の役から奥州藤原が滅ぶまでの物語である。
まあ、平泉が主人公の話だから、頼朝対木曽義央の戦いにも重要な位置で書かれているが、実際は単なる田舎の金持ち豪族だと私は確信している。
関八州を擁している頼朝と東北地方がガチで喧嘩できるか⁉️
現代に置き換えて考えて欲しい。
東京を中心とした関東地方対東北地方、横綱と褌担ぎ以上の開きではないか‼️
政治的な能力が無かったのは、源義経の不運であった。
何故、義経は平家をボロクソに出来たのか?
現代風に一言で言ってしまえば“反則”したからである。
戦には戦の作法があって、それに則って行われたが、義経は平泉の田舎で育ったため、戦の作法を知らなかったと思われるが、結果それが大勝に繋がったのだ。
平家側も貴族化していて戦いを忘れていたと思う。
それが、“屋島の戦い”だが、有名な小舟に竿の先端に扇を付けて、「これを射抜いてみよ」の故事がある。
この時に弓の名手“那須与一”が射抜くのだが、私が平家側の大将なら、「扇と竿を固く結んでおけ」と言っておくが…
射抜けなければ、平家側の士気が上がり、義経軍の士気は下がったはずだ。
指揮官たるものは、メンタル面も考慮する必要があるのだ。
さて、炎立つでは、官位、役職は意味があった。
“陸奥守”といえば、陸奥の行政を行なっていたし、陸奥守任官には正五位の官位が必要であった。
平清盛は太政大臣になったのだから、“武士”の伊勢平家が貴族化した事を意味している。
しかし、鎌倉幕府は新政府なので、これとは無関係になったのだ。
江戸時代になれば、中納言の公卿の娘が10万石の大名○○守に嫁ぐとなれば、大出世であった。
赤穂浪士の登場人物を考えてみよう。
吉良上野介義央殿は、従四位上左近衛権少将であった。
浅野内匠頭長矩は、従五位下内匠頭、時の権力者であった柳沢吉保殿は、従四位下左近衛少将であった。
この中で官位が高いのは、裏高家肝煎吉良上野介である。
幕府的には、文句なしに柳沢吉保である。
詰まり、朝廷の官位は飾りであって、何の役にも立たないと言う悲しき事実がある。
話を源頼朝に戻すと、義経も現代人も、何故義経が頼朝の勘気に触れたかわかっていない。
頼朝は、新しい武士の為の政府を作って、日本中の武士をまとめている最中であった。
『官位が欲しければ、幕府に願い出ろ』と諸国の武士に号令したにも関わらず、その当人の弟が、勝手に朝廷より任官を受けたら、他の武士に対して示しが付かないばかりか、新政府自体が自壊しかねない。
だから、身内にこそ厳しく処罰せねばならなかったのだ。
そして、義経と平泉を叩き潰す為に、義経一行を平泉に行かせたのだ。
勧進帳で有名な加賀国の安宅関での話だが、御家人富樫左衛門が逃したようになっているが、土地の所有権を認めてくれた鎌倉幕府を裏切る奴がいるか⁉️
鎌倉幕府が武士を人として認め、朝廷に代わって日本を納めるようになった。
それを裏切るとは、人間拒否と、同じ愚行である。
すると、『義経一行を平泉へ行かせろ』は鎌倉幕府の命令があったと思わねばならない。
そして1192年に源頼朝は征夷大将軍に任ぜられた。
これ以降、征夷大将軍が武門の棟梁と誤った解釈が起こった。
頼朝は陸奥を撃つから、“征夷大将軍”になったのだ。
やはり、源頼朝は凄い政治家であったのだ。