今川義元が永禄3年(1560)5月に駿府から京を目指して出発した。
物語だと天下に号令すると言われているが、単に京と見物と今川義元此処にあり‼️を見せ付けるためと、帝に謁見するのが目的で、決して天下平定など考えてもいなかったはずだ。
昨日、友人と話していたら「男の人は織田信長好きよね〜」と言っていた。
更に「今、織田信長みたいな人いるかしら❓」と尋ねられた。
答えは簡単で、「いません」である。
例えば政治家でいたとすれば、彼はどんな人物か⁉️
それは、日本国政府を倒して“新しき世”を作ることを目指している人間である。
今川義元も武田信玄も上杉謙信も、あくまでも“室町幕府”ありきなのであった。
これだけ考えても、織田信長公のスケールの大きさが桁違いだと分かるはずだ。
さて、今川義元だが、彼の軍勢は40000とか50000とか言われていたが、これは眉唾物である。
それに、駿河、遠江、伊豆の三国の太守如きで、どうやって日本六十余州と喧嘩するのか⁉️
今で考えれば、静岡県民と愛知県民の半分とで、どうやって日本と戦うのか⁉️である。
実際は20000いたかどうかであろう。
当時の兵は徴兵であった。
1000人の村があれば、半分は女性だから、500人が男である。
その内子供と、年寄りを除けば多く見積もっても250人が徴兵可能な人数である。
しかし、250人全員を徴発したら、村の機能が麻痺してしまう。
頑張っても50名がせいぜいのはずだ。
無理して100名であろう。
50000人の軍勢だとすれば、50万人〜100万人の人口がいなければならない。
当時、駿河にいたのか⁉️はなはだ疑問である。
それと一番の問題は食料である。
当然敵陣突破するのだから、食料は自前で運ぶしかない。
20000人ならば、1日の食料として55俵の米俵が必要になる。
義元は、京に何日滞在予定であったのか?
5月に出発するのは、田植えが終わった頃を見計らってであるから、稲刈り迄には戻って来なければならなかった筈だ。
最大出発から帰国まで4ヶ月間であろう。
必要な米俵は約6600俵になる。
此処で更に問題が、足軽が荷駄職人を兼ねるのか⁉️
それても常に戦を想定するなら、兵とは別に荷駄職人を連れて行かねばならない。
大八車一台に米俵6俵積むとすれば、1100台必要になるが、一台に5人から6人の荷駄職人が必要となれば、米俵の数は更に増える。
それか、占領した所までピストン輸送するのかは分からないが、持っていくとすれば荷駄職人だけでも10000人近く必要になる。
さて、桶狭間の戦いだが、今では信長公の奇襲となっているが、これは後世の物語らしく、実際は今川義元本隊を信長率いる軍勢が正面からぶつかっている。
織田信長公の家臣太田牛一が書き残した“信長公記”に書かれている。
彼は信長公と共に桶狭間の合戦の現場にいて、それを書いていたのである。
5月の暑さとその後の強風と雨を計算に入れての行動だった。
正に地の利の勝利であった。
信長公は、わざと織田方の砦二つを襲わせて兵力の分散を図り、狭い狭間に敵を誘い込めば、20000対4000でも勝負になるのだ。
これも、“孫子の兵法”に書かれている。
また、織田軍の後方より敵が義元本体を救いに来ても、泥が深く敵兵は動けなくなったという。
これも地の利を知っている者の勝利なのである。
桶狭間で休息していた今川軍の先頭は、正面から突入してくる織田軍反対を見てパニックに陥ったのは想像に易い。
そうなると、先頭の今川軍は後方へ退くが、今川軍同士の押し合いへし合いで圧死者が多数出た。
その中で、信長公は「義元の旗本が彼処にいるから、そこをつけ」と号を飛ばしたという。
詰まり、戦場は阿鼻叫喚なのは、今川軍で織田軍は冷静に戦をしていた事になる。
この時点で勝敗は付いていたのだ。
この点、信長公にしてみれば、あの世で歯軋りをしていると思う。
桶狭間の戦いだが、一か八かの掛けでの奇襲で勝利になっているのだ。
あれは計算通りの勝利だと言いたいと思う。
因みに、なぜ最後の最後まで家臣にのらりくらりしていたのかと言うと、敵の間者が紛れている恐れがあったからである。
兵法とは詭道なのである。
「敵を欺くにはまず味方から」とはよく言ったものである。
つづく