先日、名古屋城から能登半島の禄剛崎灯台までツーリングに行ってきた。

 

この旅は"ローカル路線バス乗り継ぎの旅第14弾"のオマージュとして、バイクツーリングでトレースしたのである。

朝5時前に石神井の自宅を出発して、東名の用賀ICを目指したが、環状八号線はそれほど混んではいなかったが、何故かことごとく信号に引っかかるのであった。

最初の休憩は、富士川SAでとった。

日本人は富士山が好きである。

富士山を見ると縁起が良いと感じてしまうのは私だけではないと思う。

この日のチェックポントは、浜名湖SA、名古屋城、清洲城であった。

浜名湖SAに着いて朝食を摂った。

この時点で時刻は7:51であった・・・

浜名湖は私的に好きな湖であるし、旧東名の浜名湖SAは眺めが絶景である。

これを見るために新東名に乗らなかったのだ。

 

朝食後は一気に名古屋城を目指したが、名古屋の高速道路網が兎に角分かり辛かった。

それでも何とか名古屋城に着いたが、初めて見る城に驚いた。

立派である。

流石、「尾張名古屋は城で保つ」と謳われただけはある。

天守の金の鯱は今はメッキだが、江戸時代初期は純金だったらしい・・・

財政難になったときに使えるようにとの徳川家康公の計らいであったらしい。

現在、本丸御殿が再建されており、一応中に入ったが、はっきり言ってこれは大したことはなかった。

そもそも、本丸御殿は公方様用の建物であるため、生活感がないので面白くない。

殿様は二の丸御殿に住んでいて、ここが生活空間と政治の中心であったので、こちらを再建した方が面白いと思う・・・

日本で唯一大名が入る本丸御殿は、江戸城だけであった。

公方様に使えるのが大名の仕事であったからであるが、1万石から100万石までの大名がいたわけであるが、本丸御殿内は家臣を連れては入れなかったため、御身一つで上がらねばならなかったから、その緊張感とストレスは計り知れなかっただろう・・・

頼りになるのは、茶坊主等だけであったし・・・

 

名古屋城を堪能した後、清洲城へ向かった。

意外と近いのにビックリである。

織田信長公は当初那古野城(名古屋の元の字)からスタートして、清洲城にいた織田家の本家筋を討ち取り居城を清洲城へ移していることから、信長公の時代の那古野城はちんけであったと想像できる。

これが清洲城らしいが、そもそも信長公の清洲城時代には天守などは存在していなかった。

天守が出現するのは十数年後の安土城の登場からである。

安土城は6層の天守を保ち、それを見た全ての者が度肝を抜かれたという記録があるから、それまでは櫓(丸太で組んだ)程度しか存在していなかったのがわかる。

又、この形状は少なくとも太閤秀吉以降の作りである。

我々の城のイメージは安土桃山時代から江戸時代初期に建てられた城であることを忘れてはならない・・・

 

信長公は美濃の斎藤家を滅ぼした後は、斎藤家の居城であった稲葉山城へ引っ越しをしている。

そして稲葉山城を岐阜城と改めたのであった。

 

清洲城を後にして、美濃市から板取へと向かった。

"鮎の郷"らしく昼ご飯は鮎を食べた。

そこからタラガトンネルを通って郡上八幡へ向かったが、このタラガトンネルをローカル路線バス乗り継ぎの旅では、ルイルイこと太川陽介氏と蛭子さん、森下千里さんと歩いて抜けたのだが、バイクで走っていてもかなりの距離があった。

走りながら「本当に蛭子さん、歩いたのか?」と思ってしまうほどのトンネルであった。

 

そして、いよいよ初日の目的地である郡上八幡城に着いた。

典型的な山城で、登っていくだけで汗だくで息が上がる。

カドヤの重い革ジャンを着たまま登っていった。

江戸時代は二の丸御殿は麓にあったらしい。

町からはお城が見えて、町のシンボルらしい。

苦しい時も楽しいときも、見上げればお城があるのだ。

夜は町のステーキ屋で飛騨牛に舌鼓であった。

次の日の旅に思いをはせて床についた。

 

つづく