先日、ディズニー映画の実写版ALADDINのBlu-rayが届いた。
実写版を観て感じたが、ジーニーを演じたウィル・スミスが意外と似合っていたのに驚いた。
内容はアニメ版とそれなりに似ていたが、まあ別物として観た方が面白い。
しかし、気持ち悪いのが、日本語版で観るとジャスミンが「自分が王になりたい」的な事を言っているが、女性は"王"には絶対になれないのに、日本語で"王"と言っている。
これって馬鹿としか言い様がない。
女性がなるのは"女王"である。
逆に言えば我々男性は女王にはなれないのと同じである。
"King"と"Queen"の違いである。
そもそも単語が違うから別物である。
英語版ではSULTANと言っていたと思った。
SULTANも女性は絶対になれない!!!
歴史上存在していないはずである。
しかし、アメリカも変わったと思ったのが、ALADDINに出演している俳優陣が、アラブ系であることである。
一昔前なら白人がALADDINを演じていたいたはずである。
平成10年(1998)制作の"Mask of Zorro"で主演のZorroを演じたのは、アントニオ・バンデラスであって、歴史上初めてラテン系が演じたのであった。
それまではアラン・ドロンを初めとしたコーカサス人(Caucasian)であった。
因みにCaucasianとは白人を意味する言葉である。
更に因みにであるが、偉大なる(自称)支那人の初まりと言っている黄河文明であるが、彼らはCaucasianであったことはミイラ等からのDNAで明らかになっている。
不都合な真実であるが・・・
アニメ版ALADDINは平成4年(1992)であって、これは映画館に当時の彼女と観に行って感動したことを覚えている。
買ったBlu-rayがアニメ版と実写版セットであったので、先ほどアニメ版を観直してみたらアニメ版は傑作であり、私の好きなディズニー映画の一押しであることを再認識した。
実写版とアニメ版と言えば、美女と野獣であった。
これは大学時代のフランス語の授業で昭和21年のモノクロ映画を観せられたことを思い出す。
ジャン・コクトー監督と主演がジャン・マレーであったが、この二人が「恋人同士だったんだよ」(ホモセクシャル)という教授の言葉が忘れならない。
ディズニー映画のアニメ版は泣けたが、実写版は最悪の出来としか言えなかったのが残念であった・・・
ハーマイオニー、ごめんなさい・・・
ALADDINの元ネタは、千一夜物語の"アラジンと魔法のランプ"であるが、これのジーニーは願い事は3つとは言っていない。
何でも、何度でも聞いてくれるし、最終的に自由にするというとジーニーが「ふざけるな」と拒否したと思った・・・
古代ローマ時代、奴隷を解放すると"解放奴隷"という身分になる。
これは奴隷では無いが被選挙権は無かったが、納税の義務が発生した。
因みに解放奴隷の子供は、完全なるローマ市民権を持てた。
だから、納税したくないから解放しないでという奴隷が多く存在していたという・・・
我々日本人の"奴隷"というと鞭で打たれたり、家畜同然に酷使されるイメージであるが、これはアメリカの黒人奴隷のイメージであって、古代ローマ時代奴隷は、遥かにましな生活をしていた。
医者や家庭教師の奴隷は、大事にされていた。
今の多くの日本人も奴隷と同じである。
社畜と言う名の奴隷である。
それとアラジンと魔法のランプでは、洞窟に入るときに指輪を貰う。
指輪をこすると指輪の精が出てきて、これも又願い事を叶えてくれるが、ランプの精ほどの力は無い。
指輪の精とランプの精の絡みは覚えていない・・・
アニメ版を観返して思ったのだが、アラジンがジニーを使っている最中に、ジェファー(悪党)がランプを奪いジニーを使っていたのなら、アラジンがジャスミン王女と結婚したのならジャスミンがランプを擦ればジーニーに新たに3つの願いを叶えて貰えるはずとか、アラジンがジーニーを最後の願いで自由にしてあげるが、ジーニーが自由人として友人のアラジンを助ける魔法を使うとか・・・不思議な点が多々出てきてしまう・・・
最終的にはSULTANが、娘のために法を改正して終わるってハッピーエンドである。
しかし、それに比べると実写版は、SULTANの無責任さがあからさまである。
娘の王位を譲って、「お前の初仕事として法を改正しろ」って、これは無いだろうと思ってしまう。
王制を理解できないアメリカの限界を観た気がした。
それと、アラジンがジェファーとの戦いで余り活躍していない。
これで結婚して上手くやっていけるのか?と心配になる。
そもそも無学無教養の男と結婚して上手くやっていけるのか?
話が合わないぞ!!!と映画ながら心配になってしまう。
さて、皆さんはどう感じたでしょうか?