先日より新たなブログネタとして戦後時代について書こうと思っているが、簡単に書くつもりが色々大変なことになって未だ書き上がっていない。
調べていたら面白いことがあったので今日はそれについて書いてみる。
戦国時代とは、我々が名付けた呼称であって、当時の人々が「今は戦国の世だ」などとは思ってもいなかったはずだし、時代劇にありがちな「戦の無い世の中を・・・」とか「女子供が戦で死んでいく・・・」的な考えすら無かったはずだ。
生まれたときから戦っているのだから、それを不思議と思う方が変である。
「戦国時代の始まりは?」と問われれば、それは「地方が中央の言うことを聞かなくなったとき」と応える。
それを考えると現代も既に戦国時代、もしくは政府の変わり目に突入しているのかもしれない。
例えば、「外国人への生活保護支給は違法である」と最高裁判所が結論を出しているのに、地方は未だに支給している。
そして、その違法状態を国も最高裁判所も黙認している・・・
これが戦国時代の始まりである。
少なくとも昭和の時代には考えられなかった事である。
さて、興味深いのが高家衆である。
高家とは、幕府の儀式や典礼を司る役職である。
吉良家、今川家、石橋家から始まったされるが、これが全て足利一門なのだ。
足利家は本家が潰えた場合、斯波、吉良、今川の順で本家継ぐことになっていたという。
斯波は管領職であるが、格式が別格だったという・・・
徳川氏は新田の家系であるため、足利尊氏に破れた新田義貞の敵討ち的にほぼ奴隷扱いに見えてしまう・・・
その最たるのが、喜連川氏である。
この家は、足利尊氏の次男である鎌倉公方の末裔である。
足利幕府の駄目なのは、ここである。
尊氏自体が意志薄弱な男であり、戦も弱かったが、人望だけはあった人間であったという。
京都に宗家を置いて、公方代理として関東に鎌倉公方を配置したら、これがいざこざの火種だと思わないのか?と不思議ちゃんである。
この喜連川氏は太閤秀吉の時代に断絶するが、関東へ入った徳川氏を牽制する役割として太閤が復活させているのだ。
時は移り江戸時代に徳川家康公より1000石加増され、4500石となった。
ウキペディアがいい加減だと思うのはその説明に、徳川の家来筋で無い家柄とか書いてあったが、意味不明だ。
なら、幕府の命に従わなくても平気なのか?
江戸城で、上様にお目にかかったおり、「上様」と言わずに「家光殿」と言えるのか!!!!である。
「家光殿」と呼んだ瞬間に命は無いはずである。
それに、幕府より4500石頂いた瞬間に主従関係が成立するではなかい!!!
4500石だが10万石の格式があったと褒めていたが、これは単なるいじめ以外のなにものであろうか?
10万石の格式というと服装、乗り物その他諸々金が掛かる。
分かりやすく言えば年収450万円の家なのに、年収1億円の家として振る舞えと命じられているのだ。
出来ますか?
これだけのいじめに耐え、江戸時代を乗り切ったのだから、褒めてあげたい・・・
江戸時代のことは何も知らないのが現実である。
水戸黄門を初めとした江戸時代の時代劇は多いが、裏話を知れば知るほど面白いと思う。