"人間50年、化天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり、一度生をうけたなら、滅せぬものの有るべきか"

これは織田信長公が好きだった詩で、平家物語の敦盛の段に詠われている。

意味は、人間の人生はたった50年であり、この世は夢幻の如くで生まれてきたら死んでいくと思われているが、違うのだ。

化天とは天下ではなく、仏教の世界観で化天界を指す、この下天界の一日は我々の人間界の50年に当たるといい、そこに住む人々はそこの時の流れで500歳まで生きると言われている。

人間の一生は、化天界の人々の一日でしかあらず、それは夢幻の如くにしかならないという意味になる。

その化天界の人々もまた死を迎えるだから、人間の一生など虚しい物だという意味である。

 

さて、驚いたことだが、最近の学会(馬鹿ばかりだと思うが・・・)の主流は、織田信長公は英雄で無く、凡人だと言っているらしい・・・

本当に馬鹿ばかり・・・

そもそも、信長公が見た"天下"とは何か?

現代に置き換えると、内閣総理大臣になることなのか?

否、彼は日本国政府を倒して、己の新しき政府を打ち立てることを目指したのだ。

この一つをとっても、今の政治家や日本人とどれだけスケールが違うか分かると思う。

 

詰まり、戦国時代、大名達は天下を目指していたのか?と言われればそれは違うと言うのが答えである。

今川義元や武田信玄が上洛を目指したが、上洛と天下とは別問題である。

上洛は、京の都へ行って己の存在を天下に示すことであるが、京都を治めることとは別問題である。

京都を押さえて天下に号令できるならば、三好三兄弟だって天下人なるはずであったが、織田信長に追い出されているし、そもそも足利宗家が衰退することが証明している。

 

さしずめ現代ならば、自衛隊を指揮下に置けば天下を狙える。

警察と自衛隊、勝負にならない・・・

 

何故、信長は"うつけ者"や"大うつけ"と呼ばれているかが、彼が凡人で無いことを示している。

詰まり、周りの人々の理解しがたい行動、考え方をしていたからそのように呼ばれていたはずだ。

"天才と気狂は紙一重"というように、信長の考えを理解できないないのが当時の常識であった。

 

戦国大名は、領地から上がる農作物がおもな収入源であり、領内に金山、銀山があれば儲けものであったり、戦をするときの兵は徴兵で、領民が務めていた。

重臣達には領地を分け与え、彼らは平時自分の領地に屋敷を持ち住んでいて、いざとなると御館様の居城に兵を連れて出向いたのである。

また、日本各地に残る地名、五日市、四日市、十日町、六日町等々は、市の開かれる日が決められていて、その日に決められた場所に赴き商売をしていた。

今のような商店街は存在していない。

唯一、京のみに有ったぐらいである・・・

基本の商売は行商であった・・・

自給自足で、不足分は物々交換していたのが当時の常識であった・・・

 

これで分かるとおり、それぞれの大名は、領民の数で最大兵力が決まっていたのだ。

今川や武田がどんなに頑張っても精々2万が良いところであろう・・・

1000人の村(現代もそこそこ大きい)の動員数を考えてみよう。

ざっくりと半分は女性なので男は500人である。

その半分は年寄りと子供であるので、兵役できる男性は250人である。

しかし、これを全て徴発すると村の行政が成り立たないので実際は1/3で無理矢理で半分であろう。

83人〜125人となる。

そして、兵力には実際に槍や刀を持って戦うほかに、食料等を運ぶ小荷駄隊と呼ばれる者、殿様や重臣の身の回りの世話をする者も入れて3万とか言っているのである。

 

では、信長はどうしたか?

先ずは重臣達を自分の城の周りに家族ごと住まわせたのだ。

例えば柴田勝家を住まわせれば、彼の家族、家人、下働き等々総勢100人以上は城下に住むはずだ。

これを全ての重臣に課せば清洲の城下はたちまち何万人規模の人口に膨れ上がる。

それだけの人口がいれば、商人らも行商せずに店を持つことができる。

店が出来れば人口がさらに膨れ上がり、近隣に人々も集まる。

物流が活性化される。

これが楽市楽座であり、さらに関所を廃止した。

当時は、寺社の前を通るたびに通行料と取られていたが、これも撤廃させた。(武力で)

それにより油の価格が下がり、大量に売れたという。

油といえば、今では料理に使うが、当時は料理以上に灯りとして使っていたのだ。

高ければ庶民は使えないが、安ければ皆に行き渡る。

それまでの生活は、お天道様と共に起きて暗くなれば寝るだけであったが、信長の安い油のおかげで、"夜の街"ができあがったのだ。

飲み屋やお姉ちゃんのいる店が出来たのだ!!!!

これにより経済活動が24時間になったわけで、さらに法で物々交換を禁止して金を使うようにしたのだ。

これにより領内の農作物の収穫以上の経済力を持てたのだ。

今の財務省の馬鹿共よりよほど経済感覚に優れていたといえる。

これでどうしたか?

兵を金で雇ったのだ。

日本全国、第一次産業の農業が9割であったことを考えると、当然農家の後を継ぐのは一人であるから、他の兄弟は弾き出される。

時は戦国、立身出世までは行かなくても、それなりに食っていくにはお金で雇われて戦をすることは魅力的だったはずだ。

清洲の城下は金さえ有れば、食事や酒、女も買えたのだから・・・

そこに木下藤吉郎という成功例が存在していれば、誰だって頑張るはずだ。

 

"金で兵を雇う"今では常識であるが当時の非常識(兵は無料で徴発)を信長はやったのだ。

これがどういうことか考えてみよう。

NHK大河ドラマ武田信玄で、信玄は「景虎(上杉謙信)も稲刈りまでには兵を引くであろう」と言っていた。

農民からの徴発の最大の弱点がこれである。

田植えと刈り入れの時期にはお互いに戦は出来ないのだ。

しかし、信長軍は365日戦えるのである。

信長軍と上杉軍が魚津城の戦いで死闘を繰り広げ、織田軍は数千人の死者を出したというが、上杉謙信が1000人兵を失うのと、信長が4000人の兵を失いのでは意味が全く異なる。

上杉謙信は領民を失うので、補充に年月が掛かるが、織田信長は4000人失えば、4000人の補充はすぐに出来るし、今のように遺族年金もないである。

織田信長と上杉謙信、結局は織田信長の勝ちは目に見えているのだ。

 

そして、鉄砲である。

鉄砲は堺を初め至ることで作られるが、実は火薬が作れないのだ。

日本には硝石が採れなかったらしいので、火薬は輸入していた。

国際貿易港を押さえていたのは、織田信長である。

「鉄砲も火薬が無ければただの筒」であるから、他の大名家では主力に成り得なかったのだ。

信長は鉄砲を主力として活用したから、他を圧倒できたのだ。

 

これでも織田信長は凡庸であったのか?

日本の歴史学会の方が凡庸、いいや馬鹿と言えるのでは?

 

つづく