先日、日光東照宮から金精峠を抜けて、"ロマンチック街道"で、沼田を抜けて上田まで行ってきた。

沼田市の入ると"上州真田"と六文銭の幟旗がウザいほど目に付いた。

「真田と言えば、信州上田だ」と沼田市を失笑していたが、上田城に行ってみて自分が大変な思い違いをしていたことに気が付いた!!!

 

真田氏は元々上田の郷氏で、武田家の家臣となり生き残ったが、現在の上田に城を築いたのは、天正11年である。

詰まり、信長公が死んだどさくさに紛れて徳川家康公の力を借りての築城だが、その後の沼田城(ここも信長死後のどさくさで手に入れている)問題で、家康公の命を不服としてなんと上杉方に寝返って上田城を完成させている。

 

ここで、忘れてはならないが、旧武田領は家康公の仕置きで徳川家臣となる条件で"旧領安堵"されている。

真田家も当然この裁定を受け入れていて、上田城築城も手伝って貰っていた・・・

因みに、何故沼田城に対しての裁定を不服としたのか?

これは、徳川対北条の領地確認で行われた極めて政治的な決着であった。

たぶん利根川で線引きしたのだと思われる。

これに不服って家臣の分際であり得ない行動である。

そこで、第一次上田戦が行われ、7000の徳川軍を2000の真田軍が撃退したことになっている。

だが、私に言わせれば、これは上田側の勝手な妄想であることは、実際に上田に行ってみれば分かることである。

 

現代に於いて考えてみよう。

徳川方は、静岡県、愛知県、山梨県、長野県の半分以上の大きさだが、真田は上田市である。

詰まり、静岡県民、愛知県民、山梨県民、長野県民対上田市民の戦いである。

喧嘩になるか?

そもそも、上田市なんか私の住んでいる練馬区よりちんまいのだから・・・

練馬区だけで約4倍弱の規模だ!!!

徳川方が本気を出したら、間違いなく根絶やしにされていたが、人間の器の違いをまざまざと見せられた気がした・・・

だって、今の上田城って、日光東照宮の鐘楼一つ分の価値も無いし、値段だってね・・・

 

それに、現在の上田城を築城したのは仙石忠政である・・・

真田の財力だと、城では無く砦に毛が生えた程度であったと思うが・・・

 

天正11年では、徳川にしてみれば上田はそれなりの利用価値があった。

甲州から軍勢を越後方面に動かす場合、上田は通り道であるからだ。

東側は北条領であるからである。

だが、北条もいなくなってしまえば、上田を通らなくても済むようになったし、上田自体が囲まれている状況になっている。

それを理解できずに徳川方に挑んだのだとすれば、大馬鹿者であるとしか言えない。

 

詰まり、真田がどんなに頑張っても"戦術的勝利"しかないのだ。

戦術的勝利は、戦略的敗北の前には無意味である!!!

この通りを分からねば、待つのは"死"である。

 

真田信繁(真田幸村)は、単なるテロリストである。

大坂夏の陣の話は、お伽噺であることを忘れてはならない。

歴史では、テロリストの本拠地となって大阪城を政府が叩きつぶしたである。

イラク政府がISISを潰すのと同じことだ。

真田十勇士(私に言わせれば真田十有志)だって、所詮落ちこぼれ忍者の話で、一流忍者であれば、幕府に召し抱えられている伊賀や甲賀、柳生一門にいるわけだ。

そこで役に立たないから真田なのだ。

 

今の社会と同じで、中途半端な輩は、所詮一流には成れないということだ。

 

ああ、私が真田を嫌いなのは、前々世での関わりなのか?

私の前々世は戦国大名であるらしいから、きっと裏切られたのかも知れない・・・

輪廻なのかも・・・

歴史はミステリーである。