我々日本人が、「皆同じ大和民族」となったのは江戸時代であろう。

東北や九州などは、同じ日本なのに言葉が通じなかったぐらいである。

話しても分からないから、書いて会話するという笑い話もあった。

 

私が学生時代、大学には世界中の奴らがいた。

不思議だったのは、中南米はブラジルを除いて、皆言葉が通じるのだ!!!

「お前等、同じ言葉なの?」と聞くと「殆ど同じだけれど、発音が少し違う」と笑っていた。

中南米の広大な大陸でも、しゃべって言葉が通じるのに、同じ日本で何故これ程しゃべり言葉が違うのか?不思議である。

 

戦国時代の行動範囲は、"領内"であり、武士から百姓町人まで殆ど領内から出ることは無かった。

商人は命がけで旅をしていたが・・・

武士が領内を出るときは"戦"くらいであろう。

領主と領民は一蓮托生的な運命共同体であったため、彼らの結びつきは我々が思う以上であったに違いない。

それを壊したのは江戸幕府であった。

幕府は領主と領民を切り離す政策を採った。

世に言う"植木鉢"である。

 

しかし、それが現代の日本人を作ったとも言える。

領主が国替えがあれば、多くの家臣団が付き従った。

それぞれが行った先で、結婚するから必然的に血が交わるわけで、300年間で皆兄弟状態になった筈だ。

 

さて、先日"孫子の兵法"には弱点があって、それは"時間軸の無視"であると述べた。

孫子の兵法にのめり込んだ武田信玄は、その最後は無念であったろう。

信玄亡き後、武田家の終焉は来た。

「孫子敗れたり!!!」である。

 

慶長16年(1611)5月7日に江戸に男子が生まれた。

母を静と言い、その子は幸松と言った。

静は見性院に預けられ、そこで幸松を生んだのだ。

その後、幸松は見性院と共に髙遠藩へ行った。

幸松は大人になり、その名を髙遠藩主保科正之となった。

彼の父親は言わずと知れた徳川秀忠公であり、家光公の異母弟である。

見性院は、武田信玄の次女であった。

当然、保科正之侯は、幼少の頃より武田家式教育を受けていたと推測できる。

寛永13年(1636)25歳の時に信州髙遠より、出羽国山形藩へ移付となるが、その時、髙遠藩の家臣等は協議の末、殿に付き従う臣下は、一族内の身分にかかわらず、一番優秀な者を付けることにしたという。

山形藩でも現地召し抱えの新規家臣と分け隔て無く使ったという。

 

そして、現代東北地方の蕎麦は、この時持っていった信州蕎麦なのだ。

米が取れない東北に於いて、飢えをしのぐ食材として蕎麦を持って行ったのだ。

元々米は熱帯地方植物であるから、東北では育たなかったが、現代は東北地方は米の産地であるが、これは昭和に作られた種である。

 

寛永20年(1643)に陸奥国會津へ移付となる。

會津藩で彼は何をしたか?

学校を作っり、飢饉対策に米の備蓄、医療無料、90歳以の老人に扶持米を与えた。

どれをとっても、今の政府よりも手厚いのが凄い!!!

領民だけで無く、會津に来た全ての人が無料で医師にかかれたのだ。

この噂が行商人から諸国へ伝わると、多くの行商人が會津に集まりたいそうな賑わいとなったと言う。

90歳以上の年寄りって、江戸時代にはそれなりに多かったのか・・・

平均寿命の盲点が、これで、乳幼児の死亡率が高かった為に、平均寿命を下げていたのだ。

それも、老人本人でなくくても、代理の者が米俵2俵を取りに来ても良かったという。

完全なる性善説であるが、慈悲深いお殿様を騙す奴はさすがにいなかったと思う。

まあ、騙したら磔獄門だったと思うし・・・

 

保科正之侯は、家光公最期の命で家綱公の補佐役となり、幕府の実権を握った。

明暦の大火で江戸の殆どが焼け、江戸城も西の丸を除いて全て焼けたという。

この復興の旗振りをしたのも彼である。

天守再建が多数派であったが、彼は天守再建よりも街の復興を唱え、防災に強い街作りを始めた。

道を広げ、神田川を拡張し、隅田川に初めての橋として両国橋を架けた。

城付近にあった、大名旗本屋敷を町の外へと移動させたりもした。

江戸の街が広がったのだ!!!

 

そして、幕府の政策を180度転換したのだ。

それまでは幕府の基本政策は、大名家の取り潰しであった。

跡目をあらかじめ届け出ていない大名家は改易であったが、改易されて路頭に迷う大勢の人を減らすことであった。

福島正則の家が改易されたとき、家臣の数はざっと6000人であったと言う。

その6000人に家族や郎党がいるわけで、単純に計算しても10万人近い人が路頭に迷うのだ。

末期養子を認め、なるべく大名家の存続を図ったのだ。

 

彼こそ、日本の歴史上まれに見る名君であり、政治家である。

保科正之侯は、晩年失明していたという・・・

彼の人を思いやる心は、何を隠そう、武田家の家訓であったと思う。

「人は城、人は石垣、人は堀」

人間同士の繋がりこそが、一番大切であるという。

 

その言葉通りに生きた彼は、寛文12年(1672)12月18日に61年の生涯を終えた。

 

武田信玄の心が時空を越えて、江戸幕府の神髄をなし、民を愛する名君を作り出したとも言えないか?

 

正に歴史はミステリーである。