先週の木曜日(7月7日)に東京を発って、岩手県平泉中尊寺経由、花巻椀子蕎麦、十和田経由の北海道旅行から本日7月17日に無事帰還した。

初日は東北自動車道の長者原SAで一泊した。
東京は珍しく七夕に晴れていたのに、宮城県は雨であった・・・

中尊寺と言えば奥州藤原氏であるが、私は奥州藤原氏が嫌いである。
源氏にしてみれば、先祖の怨念がこもった地である。
源頼義、源義家親子の恨みがこもっている。
前九年、後三年の役で蝦夷の安倍氏、清原氏を血みどろになって打ち破り、武家初の陸奥守に成れると思いきや、あっさり格下であった藤原経清とその子清衡に攫われてしまった。
この源義家が、八幡太郎義家と呼ばれ、室町幕府の公方は"義の字"を江戸幕府の公方は"家の字"を好んで付けている。

詰まり、源頼朝は絶対に奥州藤原だけは生かしておけないかったのだ。
そう考えると、逆賊源義経が加賀国の安宅の関を破る"勧進帳"の下りも眉唾物と思えてくる。

確かに史実はあったろうが、関守の富樫左衛門は、義経と弁慶の迫真の演技に絆されて関所を通したわけでは無いと言うことだ。
何故ならば、富樫左衛門も幕府には大恩があるからである。
鎌倉幕府以前は、武士は貴族達から"犬"と呼ばれ、汚れた仕事のみをさせられていた。
そして、土地の所有を認められていなかったのだ。
この土地の所有権を公的に認めたのは、鎌倉幕府である。
頼朝が後白河法皇との神経衰弱に見事勝利して、土地の所有権と徴税権、司法権を朝廷より奪ったのだ。
これにより武士は晴れて領主となれたのだ。

この大恩ある頼朝を誰が裏切るのか?
ここには怖ろしい頼朝の戦略があったのだ。
頼朝は最終的には東北地方が欲しかったが、表だって刃向かってこない藤原に手出しが出来なかった。
だから、義経を奥州へと行かせる必要があった。
だから、富樫も義経一行を通したのだ。
その後作戦通りに義経は奥州へ行き、藤原秀衡は受け入れてしまった。
この辺が田舎者故の政治力の乏しさか・・・
秀衡が他界してしまうと、その子泰衡が義経一行を討ち取ってしまい、頼朝へ義経の首を届けてしまう・・・
これもとんだ馬鹿者である。
私ならば、罪人の義経を捕縛して、頼朝に差し出した。
これならケチの付けようが無いからである。
もし、義経を放っておいたら「お前等、幕府に逆らうのか?」と潰されるし、泰衡のように殺してしまったら「俺の弟を殺したのか?」とやはり潰す口実を与えてしまう・・・

「夏草や兵共が夢の跡」である。
毛越寺の寺院跡と池が、正に夢の跡を我々に見せていた。

つづく