日本の歴史は縄文時代に始まるが、私が学校で習ったのは、縄文時代→弥生時代→古墳時代→天平飛鳥時代→奈良時代→平安時代→鎌倉時代→室町時代→安土桃山時代→江戸時代・・・である。
この内、弥生時代は実は無かったというのが事実らしい。
確か、元々いた縄文人を渡来系の弥生人が駆逐して出来たのが弥生時代と言うが、それが違っていた。
日本人のDNAは縄文人のDNAから出来ていて、支那人や朝鮮人とは異質であることが科学的に証明されている。
又、4000年前、現在で言う朝鮮半島は倭人(縄文人)が住んでいたことは、最新の研究で分かっている。
そして、支那の古代王朝の書物にも「半島には倭人が住んでいる」と書かれている。
実は半島には石器時代の痕跡が出てきていないのだ・・・
今日は古墳時代に付いて書くが、凄い説を耳にした。
学校で習った歴史や"マンガ日本史"によると、豪族が民を使役してより大きな墓を競って作らせた暗黒時代であった。
その最大の物が仁徳天皇陵である。
仁徳天皇と言えば、"民の釜土"で有名な方だ。
皇居から村々を眺めていた天皇は、ある日臣下に言った。
「税を免除せい」
一年経ち、二年経ち、朝廷は税を取らないので質素になっていった。
臣下達も今年は「税を徴収しなければ」と進言したが、仁徳天皇は村を指さしおっしゃった。
「釜土から煙が少ししか立っていない。民が飢えているのに、税を取ることは出来ない」
次の年、村々から多くの釜土から煙が立っていた。
「より、今年は税を取れる」と仰せになった。
これが、民の釜土の話だが、これほど民の生活を親身にお考えの天皇が、果たして使役して自らの墓を建てさせるのか?
実は、古墳は元々墓として作られたものではないといういうのだ!!!
では、あれは何?
古墳は盛り土で作られている。
盛り土と言うことは、土をどこからか調達してこなければならない。
ここが馬鹿学者共の盲点だが、実は新田開発が先にあったと言うのだ!!!!
平地は鬱蒼とした雑木林や葦などが生い茂っている地帯であった。
これを田んぼにするために、草木を刈り取り土を掘り返し、水田を作り、水を流すための大小の水路も作ったのだ。
これが答えだというのだ。
水田を作るために多くの土を掘り、用水路を作るためにも多くの残土がである。
この残土を捨てて作った盛り土が、今で言う古墳であるという。
盛り土だって、雨や台風に備えるためにしっかりと計画的に作られたという。
又、水害時の民の避難所も兼ねて小高い丘にしてある。
だから、墓ではなく単なる盛り土の古墳も数多く存在している。
仁徳天皇陵が最大なのは、最大級の灌漑工事をしたから、大量の残土がでたからである。
そして、仁徳天皇がお隠れになった折、民の感謝として、最大の盛り土の上に墓を作り聖地としたのだ。
古墳は何時しか作られなくなった。
それも納得の回答があった。
古墳時代に作られた水路を利用して、それ以降開拓された水田の盛り土は船に積まれ、海の埋め立てや、湾岸工事とうに使われたという。
確かに、インチキ歴史学者の権力欲の為の民の使役よりは、新田開発の残土を計画的に盛ったものの方が、遙かに説得力がある。
正に目から鱗の歴史はミステリーである。
この内、弥生時代は実は無かったというのが事実らしい。
確か、元々いた縄文人を渡来系の弥生人が駆逐して出来たのが弥生時代と言うが、それが違っていた。
日本人のDNAは縄文人のDNAから出来ていて、支那人や朝鮮人とは異質であることが科学的に証明されている。
又、4000年前、現在で言う朝鮮半島は倭人(縄文人)が住んでいたことは、最新の研究で分かっている。
そして、支那の古代王朝の書物にも「半島には倭人が住んでいる」と書かれている。
実は半島には石器時代の痕跡が出てきていないのだ・・・
今日は古墳時代に付いて書くが、凄い説を耳にした。
学校で習った歴史や"マンガ日本史"によると、豪族が民を使役してより大きな墓を競って作らせた暗黒時代であった。
その最大の物が仁徳天皇陵である。
仁徳天皇と言えば、"民の釜土"で有名な方だ。
皇居から村々を眺めていた天皇は、ある日臣下に言った。
「税を免除せい」
一年経ち、二年経ち、朝廷は税を取らないので質素になっていった。
臣下達も今年は「税を徴収しなければ」と進言したが、仁徳天皇は村を指さしおっしゃった。
「釜土から煙が少ししか立っていない。民が飢えているのに、税を取ることは出来ない」
次の年、村々から多くの釜土から煙が立っていた。
「より、今年は税を取れる」と仰せになった。
これが、民の釜土の話だが、これほど民の生活を親身にお考えの天皇が、果たして使役して自らの墓を建てさせるのか?
実は、古墳は元々墓として作られたものではないといういうのだ!!!
では、あれは何?
古墳は盛り土で作られている。
盛り土と言うことは、土をどこからか調達してこなければならない。
ここが馬鹿学者共の盲点だが、実は新田開発が先にあったと言うのだ!!!!
平地は鬱蒼とした雑木林や葦などが生い茂っている地帯であった。
これを田んぼにするために、草木を刈り取り土を掘り返し、水田を作り、水を流すための大小の水路も作ったのだ。
これが答えだというのだ。
水田を作るために多くの土を掘り、用水路を作るためにも多くの残土がである。
この残土を捨てて作った盛り土が、今で言う古墳であるという。
盛り土だって、雨や台風に備えるためにしっかりと計画的に作られたという。
又、水害時の民の避難所も兼ねて小高い丘にしてある。
だから、墓ではなく単なる盛り土の古墳も数多く存在している。
仁徳天皇陵が最大なのは、最大級の灌漑工事をしたから、大量の残土がでたからである。
そして、仁徳天皇がお隠れになった折、民の感謝として、最大の盛り土の上に墓を作り聖地としたのだ。
古墳は何時しか作られなくなった。
それも納得の回答があった。
古墳時代に作られた水路を利用して、それ以降開拓された水田の盛り土は船に積まれ、海の埋め立てや、湾岸工事とうに使われたという。
確かに、インチキ歴史学者の権力欲の為の民の使役よりは、新田開発の残土を計画的に盛ったものの方が、遙かに説得力がある。
正に目から鱗の歴史はミステリーである。