先週の3日から7日までの4泊5日で、"ベスパ中仙道の旅"に行ってきた。
旅の紀行は後ほど書くとして、3日目の水曜日に、岐阜から京都そして宿泊地の大津への移動であった。
岐阜城、彦根城、そして安土城を尋ねた。
岐阜城は斎藤道三の居城で金華山の上に建っている山城で、元を稲葉山城と言った。
信長は岐阜という地名を作った。
それは支那の周時代に岐山という場所に都を於き、殷を滅ぼしたことから縁起が良いと言って沢彦宗恩(たくげんそうおん)の勧めから決めた地名である。
岐阜の"阜"は山とか丘という意味らしい。
これは造語のため、信長はこれらの説明を付けている。
"天下布武"と重ねていたのだと思われる。
天正3年(1575)に嫡男信忠に織田家の家督を譲っている。
天正7年に安土城が完成している。
実は、この家督を譲った事が、鼠禿(羽柴秀吉)が天下人となるきっかけを作ったことになったのだ。
信長は方面軍を組織し、それぞれに裁量を与え統治させた。
これが間違いの始まりである(実際本人は天正10年に死ぬことを知らなかったから・・・)
何故なら、織田信忠は方面軍で言うと美濃、尾張、飛騨の抑えであった。
詰まり織田家も一軍団であったのだ。
現代風に言い直せば、羽柴秀吉や柴田勝家、織田信忠は州知事であって、信長は連邦政府の大統領というところである。
だから、本能寺の変で信長が死ぬと信忠も討ち死にしているので、清洲会議での"織田家の後目"とは、天下人ではなく方面軍の織田家のことであると気が付いていたのは秀吉一人であった。
だから、秀吉は"織田家"の後目を利用して"天下人"に登れたのだ。
もし、織田家=天下であったら、秀吉でも天下人には成れなかったに違いない。
江戸時代、徳川家以外が公方になれなかったのと同じ図式である。
信長は自ら織田家と天下を切り離してしまったのだ。
そして、その切り離した天下人の家柄を決める前に死んでしまったのだ。
実は秀吉も、この天下=豊臣家を自らの手で壊してしまった。
豊臣家の天下は、関白家(関白職の独占)になることでの天下であった。
関白を辞して太閤殿下となり、甥の秀次が関白となった。
もし、秀次を殺していなかったら、徳川の天下は夢幻であった。
関白を太閤自ら無くし、その太閤自体も死んでしまったため天下人が空白となった。
そこに家康公が滑り込んだわけだ。
さて、今回初めて安土城に行ったのだが、石垣や階段しか残ってはいなかったが、山一つが城であった。
旅の紀行は後ほど書くとして、3日目の水曜日に、岐阜から京都そして宿泊地の大津への移動であった。
岐阜城、彦根城、そして安土城を尋ねた。
岐阜城は斎藤道三の居城で金華山の上に建っている山城で、元を稲葉山城と言った。
信長は岐阜という地名を作った。
それは支那の周時代に岐山という場所に都を於き、殷を滅ぼしたことから縁起が良いと言って沢彦宗恩(たくげんそうおん)の勧めから決めた地名である。
岐阜の"阜"は山とか丘という意味らしい。
これは造語のため、信長はこれらの説明を付けている。
"天下布武"と重ねていたのだと思われる。
天正3年(1575)に嫡男信忠に織田家の家督を譲っている。
天正7年に安土城が完成している。
実は、この家督を譲った事が、鼠禿(羽柴秀吉)が天下人となるきっかけを作ったことになったのだ。
信長は方面軍を組織し、それぞれに裁量を与え統治させた。
これが間違いの始まりである(実際本人は天正10年に死ぬことを知らなかったから・・・)
何故なら、織田信忠は方面軍で言うと美濃、尾張、飛騨の抑えであった。
詰まり織田家も一軍団であったのだ。
現代風に言い直せば、羽柴秀吉や柴田勝家、織田信忠は州知事であって、信長は連邦政府の大統領というところである。
だから、本能寺の変で信長が死ぬと信忠も討ち死にしているので、清洲会議での"織田家の後目"とは、天下人ではなく方面軍の織田家のことであると気が付いていたのは秀吉一人であった。
だから、秀吉は"織田家"の後目を利用して"天下人"に登れたのだ。
もし、織田家=天下であったら、秀吉でも天下人には成れなかったに違いない。
江戸時代、徳川家以外が公方になれなかったのと同じ図式である。
信長は自ら織田家と天下を切り離してしまったのだ。
そして、その切り離した天下人の家柄を決める前に死んでしまったのだ。
実は秀吉も、この天下=豊臣家を自らの手で壊してしまった。
豊臣家の天下は、関白家(関白職の独占)になることでの天下であった。
関白を辞して太閤殿下となり、甥の秀次が関白となった。
もし、秀次を殺していなかったら、徳川の天下は夢幻であった。
関白を太閤自ら無くし、その太閤自体も死んでしまったため天下人が空白となった。
そこに家康公が滑り込んだわけだ。
さて、今回初めて安土城に行ったのだが、石垣や階段しか残ってはいなかったが、山一つが城であった。
写真で見るより階段は急である。
天守は山の頂上である。
ここに地上6層の天守を建てたのは、驚嘆である。
資材をここまで運び組み立てるだけでも相当な労力である。
門から正面の階段を登ると直ぐ左側に、秀吉の屋敷があったという。
右側には前田利家の屋敷で、この二人が門番である。
階段は右へ左へと葛折状態だが、徳川家康公ですらここを歩いて登らされたのだ。
輿の乗れるのはこの世で信長だけである。
譬え天皇ですら歩かされたであろう・・・
この城の前に彦根城を尋ねが、彦根城も素晴らしい城であったが、この安土城と比べると彦根城はゴミ同様である。
正に天下人の城である。
実は、私は登りながら恐怖感に襲われていた・・・
意味が分からないが"怖い"のだ。
そうだ、私の前前世は戦国時代の有名大名であったという。
間違いなくここに来ていた!!!!
記憶には無いが、魂が覚えているのだと思う・・・
この城は、天下に天下人を知らしめる為の城であり、天下を治めたら大阪城を建てるつもりであったらしい。
秀吉は、信長の青写真の上を歩いていたと言える。
安土城は築城から焼け落ちるまで3年間しかなかった。
城下町も形成される前に歴史から消えた。
ここを歩いていて芭蕉の句が頭を過った。
夏草や、兵共の夢の跡・・・
あの頃と変わらないのは蝉の声だけであろう。




