日本の古代史は謎に満ちている。
大和朝廷樹立前の歴史が曖昧なのだ。
関東地方、特に群馬県や埼玉県からも多くの前方後円墳があるし、古墳から馬具の出土品も多く見つかっている。
当時、日本には馬がいなかったという通説であるが、その時代に関東地方には馬がいたのだ。

神武天皇以降、10代崇神天皇、15代応神天皇、26代継体天皇と実際に実在したの最初の天皇はと馬鹿なことを論じている学会であるが、ギネスブックは初代神武天皇からが日本開闢であると載っている。

さて、問題は、古代、日本は弱小国であったのか?
日本海によって大陸や半島と隔たれていたから侵略されなかったのか?
この事を考えてみる。
詰まり、歴史学会も戦後の馬鹿な赤や左の思想が入っていて、弱小国日本としている可能性は無いのか?である。

さて日本書紀には三韓征伐や任那政府に付いて書かれているが、日本の歴史書など当てにならないというのならば、半島の歴史書である三国史記を観てみる。
三国史記に最初に日本の記述があるのは、紀元前50年頃まで遡る。
紀元前50年に、「倭軍が半島に攻め込んできた」と記されているし、紀元前20年には、倭の国から外交関係を結ぼうとして半島にやってきた瓢公(ここう・腰に瓢箪をぶら下げていたからこう呼ばれたらしい)という人が書かれていて、この瓢公が新羅の政治の中枢を担うようになったという。
そして、新羅の4代目の王は、日本列島の東北出身者と書いてあるのだ。
73年、121年、208年にも倭は新羅を攻めている。
この頃は支那では前漢の時代であり後漢書にも半島の南部には倭人の国があると書かれている。
232年、233年、249年、287年、292年、294年、295年も倭軍は新羅を攻めている。
そして、295年の箇所には、新羅王が「倭人は度々我が国に攻め込むから百済と同盟を結び海を渡って攻め込みたい」と家臣等に相談したら、百済は信用出来ないし、海戦に不慣れであるので無理は禁物であると進言している。
346年に倭軍は金城(新羅の首都)を包囲してる。
364年393年にも倭軍は新羅を攻めている。

高句麗の19代好太王の偉業を称える好太王碑というものが、現中国吉林省にあるのだが、この文面に新羅、百済は高句麗の属民であったが、倭が319年に海を渡り百済、新羅を臣民にしてしまったと書かれている。
397年に百済は倭に太子を人質に送っているし、402年に新羅も王子を倭国に人質に出している。
405年、407年、415年、431年、440年にも倭は新羅を攻めている。
支那の宋書によれば、倭国王斉(さい)に印鑑と新羅の軍制権を与えている。
この斉は19代の允恭天皇に当たるらしいのだ。
この後も459年、462年、463年、476年、477年、482年、486年、497年、500年にも新羅を攻めている。
隋書には百済、新羅とも倭国を尊敬して朝貢していると書かれている。
三国史記にその後倭国が出てくるのは660年に白村江の戦いである。
唐・新羅の連合軍に倭軍は破れ、完全に半島から撤退したのだ。
その時の天皇は天智天皇でり、唐軍が攻めてくるかもとして九州に防人を置き、砦を築いたのであった。

さて、問題は日本海があったから日本は大陸から攻め込まれなかった説が嘘であったことがお分かりであろう。
日本は実に20回以上も半島に攻め込んでいて、百済、新羅を属国としていたのだ。
もし、海が堀の役目をしていたら、半島側の奴らにしても、この海を越えて日本軍がくることなど考えられない筈である。
しかし、古代日本軍は軍船で海を渡り半島を席巻していた。

天智天皇が危惧していたが、唐は攻めては来なかった。
詰まり海を渡る技術が無かったと言える。
日本は縄文時代から海洋民族で、我々が日本史で習った以上に広範囲を移動していた証拠も出てきている。
縄文時代には、半島には縄文人が住んでいたという。

日本は昔から強かった。
強かったからこそ、支那の歴代王朝も属国にしようとは思わなかったのだ。
聖徳太子の「日出ずる所の天子からから、日没するところの天子へ」の親書でもわかる。
もし、百済、高句麗、新羅の使節が、このような親書を隋王朝の皇帝へ送ったら、その場で打ち首になり、その国は滅ぼされたはずである。
聖徳太子のこの親書の意味は大きい。
「これからは、支那とは同等である」宣言である。

だから、今日まで日本は独立国として存在し続けているのだ。

我々はもっと大和民族に誇りを持つべきであろう。