蒙古襲来といえば、文久の役(1274年)、弘安の役(1281年)の二回であるが、これは日本が外国から攻撃を受けた開闢いらい初めての戦いであった。
私は夕刊紙のデジタル版を購読していて、これについてのエッセイが毎日書かれている。
著者の"逆説"シリーズは、点と点が線になった画期的な本であったが、エッセイの中で気になるのが"中国"という記述である。
蒙古の時代に中国と言えば、現代の鳥取、島根、山口、広島、岡山の辺りを指し、中国人と言ったらそれらの人、詰まり大和民族を指す言葉であった。
だから、蒙古の時代には"支那"と呼称しなければならない。
さて、蒙古襲来といえば「神風が吹いたから勝った」とされているが、それが嘘だったというのだ!!!
実は、鎌倉武士団が強くて、蒙古軍と高麗軍の連合軍を倒したというのだ。
おいおい、ここでも半島根性丸出しだ!!!
自分たちが征服されたら、次は一緒になって日本叩き!!!
これって800年以上たった現代の日本、支那、南北朝鮮と何も変わっていない国際情勢にうんざりとさせられる。
今、日本は大きく戦後体制の変革時にきている。
集団的自衛権の行使や政府が自衛隊を軍隊として認めるといった、当たり前の国になりつつあるが、左巻きの亡国馬鹿共は、やれ戦争がと騒いでいる。
徴兵制も閣議決定されたらしいし、良い国になりつつある・・・
さて、「戦争は嫌!!! 戦争するぐらいなら何もせずに奴隷となる」と言った馬鹿がいた。
奴隷となったらどうなるか?
はい、蒙古の奴隷となった高麗は、結局徴兵され蒙古のために日本に攻め込まされて、鎌倉武士団に殺されまくった・・・
今の、維吾爾やチベットを考えて欲しい。
彼らは支那(中共)に侵略され、奴隷より酷い扱いを受けている。
翁長とかいう気狂い沖縄県知事が、朝貢したらしいが、支那の属国になったら沖縄県民は人間狩りの標的にされることぐらい分かるはずだ・・・
今、維吾爾でどんな殺戮が行われているか?YouTubeでも観れば脳みそがぶっ飛ぶのも閲覧可能である。
話を蒙古に戻すが、蒙古はモンゴル人であるが、半島の腰抜けと違って、日本の侍は強いのを分かっていなかった。
まあ、結局蒙古襲来は、鎌倉武士団の強さと地の利で勝てたのだ事実であるが、神風で勝ったは迷信である。
確かに暴風は吹いたが、それは結果論であって、もし鎌倉武士団が腰抜け半島人並であったら、暴風が吹く前に九州に全軍上陸していたのだ。
そして、日本の水軍も強かった。
船の大きさでは投石機を詰めるほど大きかった蒙古の船に対して、日本軍の船は"矢切の渡しの船"より少し大きかったらしいが、小回りがきくし、速度も速かったため、夜戦で敵の船に火を放ったというのだ。
昼も夜も日本軍の猛攻の前に撤退を余儀なくされいたところに、暴風雨がやってきた。
正に"泣きっ面に蜂"状態で逃げ帰っていった。
蒙古軍の将が、フビライに送った書状では、"暴風雨で負けた"と書かれていたと言うが、確かに軍事国家が小さな島国にこてんぱんに負けたとは認めることが出来なかったのであろう・・・
さて、問題は何故総大将の北条時宗の評価が低いのか?である。
エッセイの著者は、朝廷が武士を馬鹿にしていたから、戦いに見合った恩賞を与えなかったというのだが、私はそうは思わない。
何故ならば、「北条時宗に朝廷が恩賞を与える」というが、何を彼に与えられる?
太政大臣? 征夷大将軍?否、彼は非情な現実主義者でなかったのか?
そもそも鎌倉幕府執権、それも徳宗家であった彼を凌ぐ財力、権力を持った人間が、当時の日本に存在していたであろうか?
鎌倉時代の権力図は、学校で習った以上に複雑であった。
名目上の征夷大将軍はいたが、実権は北条家の世襲である執権職であるが、この執権職よりも徳宗家の方が上なのだ。
執権は幕府の公式な役職であるが、徳宗家は北条家内の最高位を指している。
詰まり、幕府の公職よりも北条家の序列が上であったのだ。
その点、北条時宗は徳宗家であって執権職であったので、日本での最高権力者であった。
だから、朝廷からの恩賞など意に返さなかった筈である。
何故ならば、天皇の位すら北条家の一存で変わってしまうのだ。
事実それが後の南北朝対立へとなっていくのである。
誰を次の天皇にするかも、北条家の胸三寸であった。
はい、これで北条時宗が恩賞を貰う立場になく、恩賞を与える立場であったことが分かる。
北条時宗がいなければ、日本は支那の属国となっていて、大和民族の存亡すら危うかったのだ。
さて、そろそろ紫陽花の季節だし、鎌倉へ観光で行ったら、是非とも時宗公の墓参りをして、彼の功績を称え感謝しようではないか!!!
私は夕刊紙のデジタル版を購読していて、これについてのエッセイが毎日書かれている。
著者の"逆説"シリーズは、点と点が線になった画期的な本であったが、エッセイの中で気になるのが"中国"という記述である。
蒙古の時代に中国と言えば、現代の鳥取、島根、山口、広島、岡山の辺りを指し、中国人と言ったらそれらの人、詰まり大和民族を指す言葉であった。
だから、蒙古の時代には"支那"と呼称しなければならない。
さて、蒙古襲来といえば「神風が吹いたから勝った」とされているが、それが嘘だったというのだ!!!
実は、鎌倉武士団が強くて、蒙古軍と高麗軍の連合軍を倒したというのだ。
おいおい、ここでも半島根性丸出しだ!!!
自分たちが征服されたら、次は一緒になって日本叩き!!!
これって800年以上たった現代の日本、支那、南北朝鮮と何も変わっていない国際情勢にうんざりとさせられる。
今、日本は大きく戦後体制の変革時にきている。
集団的自衛権の行使や政府が自衛隊を軍隊として認めるといった、当たり前の国になりつつあるが、左巻きの亡国馬鹿共は、やれ戦争がと騒いでいる。
徴兵制も閣議決定されたらしいし、良い国になりつつある・・・
さて、「戦争は嫌!!! 戦争するぐらいなら何もせずに奴隷となる」と言った馬鹿がいた。
奴隷となったらどうなるか?
はい、蒙古の奴隷となった高麗は、結局徴兵され蒙古のために日本に攻め込まされて、鎌倉武士団に殺されまくった・・・
今の、維吾爾やチベットを考えて欲しい。
彼らは支那(中共)に侵略され、奴隷より酷い扱いを受けている。
翁長とかいう気狂い沖縄県知事が、朝貢したらしいが、支那の属国になったら沖縄県民は人間狩りの標的にされることぐらい分かるはずだ・・・
今、維吾爾でどんな殺戮が行われているか?YouTubeでも観れば脳みそがぶっ飛ぶのも閲覧可能である。
話を蒙古に戻すが、蒙古はモンゴル人であるが、半島の腰抜けと違って、日本の侍は強いのを分かっていなかった。
まあ、結局蒙古襲来は、鎌倉武士団の強さと地の利で勝てたのだ事実であるが、神風で勝ったは迷信である。
確かに暴風は吹いたが、それは結果論であって、もし鎌倉武士団が腰抜け半島人並であったら、暴風が吹く前に九州に全軍上陸していたのだ。
そして、日本の水軍も強かった。
船の大きさでは投石機を詰めるほど大きかった蒙古の船に対して、日本軍の船は"矢切の渡しの船"より少し大きかったらしいが、小回りがきくし、速度も速かったため、夜戦で敵の船に火を放ったというのだ。
昼も夜も日本軍の猛攻の前に撤退を余儀なくされいたところに、暴風雨がやってきた。
正に"泣きっ面に蜂"状態で逃げ帰っていった。
蒙古軍の将が、フビライに送った書状では、"暴風雨で負けた"と書かれていたと言うが、確かに軍事国家が小さな島国にこてんぱんに負けたとは認めることが出来なかったのであろう・・・
さて、問題は何故総大将の北条時宗の評価が低いのか?である。
エッセイの著者は、朝廷が武士を馬鹿にしていたから、戦いに見合った恩賞を与えなかったというのだが、私はそうは思わない。
何故ならば、「北条時宗に朝廷が恩賞を与える」というが、何を彼に与えられる?
太政大臣? 征夷大将軍?否、彼は非情な現実主義者でなかったのか?
そもそも鎌倉幕府執権、それも徳宗家であった彼を凌ぐ財力、権力を持った人間が、当時の日本に存在していたであろうか?
鎌倉時代の権力図は、学校で習った以上に複雑であった。
名目上の征夷大将軍はいたが、実権は北条家の世襲である執権職であるが、この執権職よりも徳宗家の方が上なのだ。
執権は幕府の公式な役職であるが、徳宗家は北条家内の最高位を指している。
詰まり、幕府の公職よりも北条家の序列が上であったのだ。
その点、北条時宗は徳宗家であって執権職であったので、日本での最高権力者であった。
だから、朝廷からの恩賞など意に返さなかった筈である。
何故ならば、天皇の位すら北条家の一存で変わってしまうのだ。
事実それが後の南北朝対立へとなっていくのである。
誰を次の天皇にするかも、北条家の胸三寸であった。
はい、これで北条時宗が恩賞を貰う立場になく、恩賞を与える立場であったことが分かる。
北条時宗がいなければ、日本は支那の属国となっていて、大和民族の存亡すら危うかったのだ。
さて、そろそろ紫陽花の季節だし、鎌倉へ観光で行ったら、是非とも時宗公の墓参りをして、彼の功績を称え感謝しようではないか!!!