「名君と忠臣並び立たず」という言葉がある。
これは名君ならば、誰でも仕えたいから忠臣である必要が無いし、馬鹿殿だからこそ、お家大事で踏ん張るから忠臣が生きているのだ。
例えば、浅野内匠頭長矩が名君であれば、"赤穂浪士"の話すら無かったはずである。

「君君らずとも臣臣足らず可からず」という言葉がある。
これは「如何に馬鹿殿でもちゃんと仕えろ」的な意味であるが、日本では古来より「殿様押し込め」の風習があり、幕府も手際よくやれば見て見ぬふりをしていた節がある。
これは、馬鹿殿を家臣一同で隠居させ、新しい主君にしてしまうことである。
私の諸説からの推測だが、浅野内匠頭もこれになりそうな節があったが、松の廊下で切れた方が早かったのだ・・・

教えがあると言うことは、実際は「君君足らずば臣臣足らず」であったと言える。

平安時代、中央で天皇家さえ凌駕した最低最悪藤原一門だが、こいつ等は、国民がどれだけ餓死しようが、盗賊が闊歩しようがお構いなしで、平等院を建てて死ぬのが怖いと言っていたのだ。
これを見たら、国民だって真面目に働くのが馬鹿に思えるから、野盗や盗賊になり、治安は最低最悪と言わざる終えない状況であった。
だから、源氏物語絵巻のような京の風景は、存在しなかったと言える。

中央での出世をたたれれば、地方へ目を向けるしか無い。
例えば、賄賂を送って武蔵守にしてもらい、現在の府中に来て、国家予算を使い私利私欲を稼ぐ。
金を稼いで渡りをして老後の蓄えをする奴らもいれば、新田開発して自分の荘園を作ってしまう奴らとに別れた。
あれ?渡りって、今の馬鹿官僚とやっていることは同じだ!!!!

さて、地方に残った奴らは、国司の任期が一年だからこの好きにどれだけの公金を横領して自分の農地を開拓し農民を確保するかに全神経を集中させた。

問題は、同じ事をしている奴らが多いと言うことだ。
例えば家族で武蔵守を歴任すれば、5年で凄いことになるから、多分一家で同じ任地に行ったと思う。
悪知恵は現代も平安時代も変わりない筈だ。

それなりに広大な土地を維持出来るが、問題は中央でも治安が悪いのに武蔵国(例えばね)はもっと悪いはずだ。
役人は役に立たない(自分らも散々やらかしていたから)から、自分の土地は自分たちで守らねばならない。
そこで家人達に武装させたのだが、武士の始まりである。

だから大名家には藤原や源、平が多い・・・
有名な平一門は今の茨城県辺りに集中していた。
ここから平将門が出てくるのだ。
平将門の乱を終わらしたのが従兄弟の平貞盛でる。
貞盛は本家筋で、彼の子孫が平清盛と鎌倉幕府執権の北条氏である。

武士とは中央でうだつが上がらず、地方へ活路を見出し、地方で財力と武力を蓄えていった一門なのだ。
逆説的に言えば、もし藤原共が、まともな政治をしていたら武士は生まれなかったとえいる。

桓武天皇以降、朝廷は軍隊を捨てたのだ。
何故捨てたか? 人を殺すこと穢れるからだそうだ。
しかし、蝦夷征伐は別問題で、蝦夷は人で無いから殺しても良いという考えであった。
現代でも東北蔑視はこの頃から続いているのかも知れない・・・

これは事実で奥州で一大勢力を持っていた安倍氏と源頼義(八幡太郎義家の父)が戦った戦を"前九年の役"と呼ぶが、この"役"が問題で、これは野蛮人(人にあらず)との戦いに使われる。
だから元寇も"文永の役"、"弘安の役"と呼ぶ。
これはモンゴルは野蛮人と言うことだ。
だが、平将門との戦いは"将門の乱"と呼び"乱"という字を当てる。

東北地方は昔から豊かな土地で、山の幸、海の幸、そして金が豊富に出た。
だから、朝廷はこの土地を蝦夷から奪おうとしたのだ。

しかし、朝廷は武力を持たないから武士を使ったのだ。
武士は犬と呼ばれ、源氏の宗家と言われていた源頼義でさえ、貴族と会うときは昇殿出来ずに地べたに這いつくばっていた・・・

つづく