天正10年6月2日(1582年6月21日)に、本能寺にて天下人織田信長公が暗殺された。
首謀者は明智日向守光秀であった。
陰謀説も所説あるが私は、徳川家康公が黒幕と観る。
この時神君公は40歳であった。

因みに織田信長公は従二位左大臣であったが、本能寺の変の前に正親町天皇は信長公に足して三職推任したとされる。
太政大臣、関白、征夷大将軍であるとされるが、私は後生の作り話だと思う。
何故なら、この三職はまるで格式が違うからである!!!
先ず、太政大臣は「位人臣を極める」の最高位である。
関白は人身を越えた職で有り準皇族的立場になる。
征夷大将軍は身分が低すぎるのだ。
天正3年に右近衛大将に任ぜられている。
この近衛大将と征夷大将軍では、雲の上と下ほどの開きがある。
同じ将軍でも正に月と鼈であるのだ。

詰まり、信長公が亡くなったとき左大臣であった。
豊臣秀吉公は太閤殿下(身分は準皇族だから敬称が殿下である)であったが、徳川家康公は"東照神君"であり、最早人では無く神となられたのだ!!!
この三人で最終的に一番偉くなったのは神君公である。
信長=人、秀吉=準皇族、家康=神である。

信長公が暗殺されたとき、家康公は安土城に招かれていて、信長公に暗殺されそうになった。
織田家には徳川家が邪魔であったし、同盟よりは臣下の礼を取らせたかったのだろうし、家康公の真の恐ろしさを見抜いていたのかも知れない。
逆に観れば、もし家康公が天下を狙ったのなら、このチャンスを逃がせば御鉢は絶対に徳川家には回ってこなかったはずだ。

当然、家康公への協力者が織田家にいたのだ。
その人物こそ明智光秀であったと思われる。

明智光秀=天海大僧正という説もあながち嘘とも言い切れない・・・

日光の明智平や日光東照宮の"桔梗の家門"の入った灯籠等・・・

本能寺を討つのだって相当な計画が必要であった筈だ。
何故なら明智の軍勢も信長公の軍勢であるので、将兵だって自分の上様を討つはずが無い。
これは将兵を騙して「謀叛人から信長公を救う」として京へ兵を進めたのだ。
この時の兵の日記が残っていて、夜が明けるまで誰を討ったのか知らなかったという・・・
詰まり「敵は本能寺に有り」などと映画のような訳には行かなかったと言う事だ。

この時、織田家当主織田信忠も討ち取っている。
そう、彼を生かしておいたら後の清洲会議すら開かれなかったことは確かである。
織田家当主が生きていれば、誰一人逆らう奴はいなかったからだ。

信長公は天正4年に織田家の家督を長男の信忠に相続させていた。
これにより、信長公は大名の上に立つ皇帝のような存在となった。
織田家の当主には織田家の領地での仕置きがり、領地管理をせねばならなかった。
そういった領主の仕事を譲ってしまえば、もっと大局的に戦略を練ることが出来るのだ。

40歳で信長公を葬った家康公は、次の一手を考えた。
小牧・長久手の戦いで羽柴秀吉軍に勝ったが、秀吉の命を取らずに引き上げた。
その後、歴史の知るように大阪城に上洛して臣下の礼を取っている。
私はこれは作戦だったと思う。
もし、徳川家が織田家に変わって天下を取ろうとすれば、中国の毛利、そして九州の諸大名と闘う前に、織田家の武将と闘うことになる。
長い間共闘して生きたから、織田軍団の強さも弱さも知っている。
しかし、ガチンコで血みどろの戦いをするのは得策とせずに、兵を引き、織田家同士の血みどろ傍観しつつ徳川家の富国強兵に努めたのだ。

事実、約10年掛かって血みどろを制したのは、羽柴秀吉軍であったが、最早徳川家と戦をする余力は無かったと思う。
だから、妹を人質として次に母親まで人質としてまで、上洛を促したのだ。

つづく