昨日、無事に武蔵、上野、越後、信濃の旅を終えて帰ってきた。

125ccのスクーター"ベスパLXV125 3V"も快適に走った。
初日は午前6時に出発して先ずは武蔵国一宮である大宮氷川神社に詣でた。
確かに巨大な神社であった。
江戸時代など今の何倍もの大きさであったことは伺えるし、もともと参道が中山道だったのを時の代官が「余りにも畏れ多い」と中山道を現在の位置へ店ごと移転させたという逸話も残っている。

そこから国道17号線こと中山道をひたすら上州高崎を目指してひたすら進んでいった。

高崎から県道29号から26号を経て箕輪城へ行った。

箕輪城は長野氏の居城であって、最終的には武田信玄に滅ぼされてしまう。
甲州と上州は遠いイメージだが、実は近い!!!
武田軍は今では無いも同然の"余地峠"を越えて上州に雪崩れ込み、世界遺産の富岡製糸場がある辺りの富岡城を一飲みにして、箕輪城を攻めたという!!!
主人であった越後の長尾景虎に援軍を頼んだが、この頃越後の一向一揆鎮圧で援軍が出せずに、長野氏は滅んでしまったという・・・
「夏草や兵どもが夢の跡」がぴったりな景色が広がっていた。

その後、井伊直政の領地となったが、太平の世には手狭の城という事で、高崎城築城と共に箕輪城の歴史は幕を閉じた。
しかし、井伊家の次席家老長野民部はこの長野氏の血筋であったという。
井伊家は神君公御入府と共に上州に12万石を拝領したが、この後彦根藩35万石の太守となったのだが、藩の規模が約3倍となったのならそれだけ優秀な人材が必要であったと言うことである。

箕輪城を後にすると群馬県道25号三国街道を北上する。
大名行列や多くの旅人がその昔通った道である。
歴史を感じる。

月夜野から国道17号と三国街道がぶつかり、これ以降国道17号線が三国街道となり、三国峠へ誘い苗場、そして湯沢へと繋がっていく。

その前に、箕輪城で知り合ったボランティアガイドをしている老人に是非にと言われ立ち寄った古城跡がある。
名胡桃城(なぐるみじょう)後である。

現在は月夜野インターから17号バイパスで鉄橋を渡って直ぐに右手だが、通常バイパスを通ってきたら気が付かない立地である。
かく言う私も知らなかったし、気が付きもしなかった・・・
しかし、この城は戦国時代を終わらせる歴史的な役割を果たしたという。

小田原の北条氏はこの地まで勢力を伸ばしていたが、先にこの地を治めていたのは真田氏であった。

北条対真田であったのを豊臣秀吉公が仲裁して、利根川を挟んで東は北条、西を真田と定めたが、沼田城代猪俣邦憲がとち狂って真田領であったこの名胡桃城を攻めた。
それに怒ったのは真田以上に秀吉であった。
これが切っ掛けで小田原攻めになったのだ。

しかし、歴史の因果では無いが、戦国時代を始めたのは北条早雲であった、終わらせたのは五代目の北条氏直であった。
応仁の乱は確かに戦国時代の入口かも知れないが、これは悪まで公方の後目争いに、守護大名の後目洗いも加わった言わば権力闘争であったが、北条早雲のは違う。
主家を討って国を奪ったのだ!!!
下剋上の始まりであった。
北条早雲が居なければ、ある意味木下藤吉郎が羽柴秀吉、太閤秀吉になる図式はあり得なかったかも知れない・・・
余談だが、北条氏は小田原で絶えたと思ってる一が多いと思うが、実は北条氏直は神君の娘婿であったので、河内国の狭山藩として明治まで大名家として存在した。

国道17号だと橋を渡り何でも無いように思えるが、橋が無ければ名胡桃城は崖の上に建っていた山城であった。

今では普通に橋が架かっているが、昔は橋など無かったのだから、それは大変であった事が今回の旅で分かった。

現代は"Time is money"と言われ、早く目的地に着くことが良いこととされている。
東京大阪間も新幹線前のこだま号では6時間半掛かっていたが、現在のぞみでは約2時間半である。
これがリニアになれば、1時間半になる。
東京大阪間は、日帰り圏内となる。

旅人は目的地に行くことが目的なのか、その途中も楽しむものか?
どちらも正しいと思う。
たまには、ゆっくりと気ままな旅をして、先人に想いを馳せてみるのも一興であろう。

つづく