天下と言う餅を信長がついて、秀吉がコネて、家康が食べたと言われている。

しかし、本当に家康公に天下と言う餅が棚ぼたで落ちてきたのか?

前回、本能寺の変の黒幕は、明智光秀と徳川家康公だと書いたが、その事を考えていたら、恐ろしいことに気が付いた。

家康公が信長公に命を狙われていることは、薄々感づいていたと思う。
そうなると、生きるか死ぬかの問題で、自分は主従関係でないのだから「そちらがその気ならこちらも・・・」となることは自然の流れである。
「奴に出来るのなら、私にも出来るはず」とこの時家康公は天下に照準を合わせたと思う。

本能寺の変後、呆気なく明智軍が秀吉軍に敗れた。
有名な清洲会議が開かれ、織田家の主流は秀吉公へ流れた。

二人の生涯で軍事的にぶつかったのは"小牧・長久手の戦い"であったが、徳川勢の圧勝であった。
しかし、秀吉は政治的解決をして徳川を孤立させた。
家康公は秀吉公の首を取らずに兵を三河へ引いた。

秀吉を叩けても織田家全体を敵に回せば勝ち目が無いから、引いたと思う。
その後約10年間、秀吉公は織田軍団を敵に回し戦った。
最大の敵柴田勝家を倒したとき、天下人となったも同然であった。

この10年で徳川はじっくりと戦力と内政の充実を図った。
しかし、誤算は徳川家が思ったより速く中国、四国、九州征伐が終わってしまったこだ。
大阪城も完成して、豊臣方から上洛を促してきた。
秀吉公は、妹に続き母親の大政所までよこした。
これ以上だだをこねられない状況に追い込まれたら、作戦変更である。
組織に入り込み、その内側から崩壊させるのだ。

特に軍事組織は、外部からの攻撃には強いが、内部からの攻撃には脆いのだ。

幕末を考えて欲しい。
幾ら薩摩長州が連合を組んでも、所詮田舎ものだ。幕府の敵ではない。
鹿児島県と山口県が逆らったところで、中央政府はびくともしないのと同じだ。
これは幕府の中枢に革命の旗手勝海舟がいたからこそ、幕府を倒して明治が来たのだ。

そう考えると、関白秀次の切腹、秀次の子供らその血の根絶やしも納得出来る。
一連の出来事で一番得をしたのは、秀頼に権力委譲を狙った秀吉以公上に家康公である。

もし秀吉公が亡き後、秀次が存命であったら、徳川幕府の夜明けはあったであろうか?

この時代は「天下は回りもの」と皆が考えているし、武士道的な考え方はない。
武士は二君に使えず的な考えは江戸時代に出来てくる。
平和だから言えることで、戦時であったら、優秀な人材は幾ら出しても欲しいのだ。

秀吉公亡き後、大多数の大名は「天下は徳川殿」と思ったに違いない。
そもそも、天下を織田家から奪ったのは誰あれろう豊臣秀吉本人であった。

そう考えると、豊臣家の中枢に徳川方が食い込んでいたことになる。
現在の日本の政府に元朝鮮人共が入り込んでいるのと同じことである・・・

毎日、秀吉公に「秀次の裏切り」という毒を飲ませ続けたのだから・・・
そして、天下分け目でない関ヶ原の戦いへと繋がっていくのだ

つづく