歴史は正にロマンである。
今、常識とされている歴史もいつ何時嘘になるかは分からないのだ。
世界4大文明はもやは嘘っぱちで有り、それより遙かに古い遺跡が世界のあちらこちらから発見され、パキスタンのモヘンジョダロは7000年以上前に都市が放棄されているのだ。
この町は、道が舗装されていて上下水道が完備されていた。
そして何より都市の放棄の理由が核戦争によるものだとされている・・・
リビアには8千年前にウラン発掘の後すら発見されている・・・
さて、我が国の歴史、特に徳川家康に付いて考察する。
天文11年(1542)12月26日寅刻に松平広忠が嫡男として生まれたとされている。
幼名竹千代後に松平元康であり、後に徳川家康となるのは通説である。
世良田二浪三郎元信という人物がいたらしいが、彼こそが後の徳川家康となったという。
この世良田元信とは新田一門で先祖は"得河"姓を名乗っていたという・・・
もし、松平元康が本人であったら、改姓する必要があったのか?
それに家紋まで変えている!!!
日本人として「自分であったとしたら?」と考えて欲しい。
女性ならば結婚すれば姓が変わるが、男なら養子に行くか、天皇陛下から姓を賜る以外、先祖代々の姓を変えるか?である。
家紋も変えている点も不自然である。
我が家の寺は東京の赤坂にある浄土寺である。
この寺の家紋は三ツ葉葵で、徳川家の庇護を受けていた。
このお寺の主として祀られているのは、家康公以前の松平家の殿様である。
墓石に掘られている家紋を見れば、三ツ葉葵ではないのだ!!!
さて、今日の本題は、織田信長公の暗殺事件である"本能寺の変"の黒幕は徳川家康公である説である。
厳密に言えば、徳川家康公と明智光秀が犯人である。
実行者が明智光秀で、裏にいたのが徳川家康公となる。
実は信長公と家康公は、仲が悪かったのだ。
表面上は同盟国だが、これはお互いに助け合いが必要なときには機能するが、片方の力が圧倒すると強い方からは邪魔だし、小さい方からは羨みと妬みが出てくる。
言っておくが戦国時代は、馬鹿殿よりは血は繋がってなくても優秀な跡取りの方が重要であった。
現代と違い親子とは血での繋がりよりも家の繋がりの方が強かった!!!
詰まり、信長公は遅かれ早かれ家康公を亡き者にする計画であった。
これは想像だが、家康公が安土城を訪れる寄りより先に、「家臣になれ」的な会話はあったと思う・・・
自分が信長であったらそうする。
天下布武のよる統一は、一人のみが天下人であるため、他は全て家臣である。
徳川宗家とそれ以外の者との関係は、日本中全てが主従関係である。
朝廷も言うに及ばず、徳川宗家に逆らえば、日本国内誰も生きていけなかった。
詰まり信長公も天下人になれば当然朝廷も含めて主従関係を強要するはずである。
但し、信長公の計画では、中国大陸全てを征服して"皇帝"になることであった・・・
詳しくは別の機会に書くが、家康公暗殺は安土城での公の接待中に毒を盛ることであったらしい。
これを阻止したのが接待役の明智光秀であり、わざと腐った魚料理を出して信長公を激怒させ暗殺の機会を奪ったという。
問題は根強く残る明智光秀は天海大僧正だということだ。
もしこの説が正しいとすると、私の想像だが、光秀は心の強い武士でないため侍と言うよりは公家に近い性格であったので、信長公の度重なる戦に嫌気がさしていて、出家の望んでいて、家康公と何らかの話し合いが付いていた。
逆説的に考えれば、天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺以外、信長公の暗殺は難しくなる。
あのまま中国地方の毛利征伐に行けば、数ヶ月で毛利は滅ばされるし、その後の九州征伐も数ヶ月であろう。
信長公の前で生き残るためには平伏する以外に方法はない。
詰まり臣下の礼を取る以外に方法がないことは誰でも分かる。
そうなると朝鮮出兵から明国征伐へ乗り出すまで数年もかからない!!!
ここまで来れば、光秀に信長公を討つ機会は皆無となる。
又、徳川家康公として考えれば、徳川家が天下を取るためには、本能寺の時しかチャンスがない!!!
これを逃せば、徳川家は日本から消え去るか、織田家の家臣となるしか取る道がない・・・
つづく
今、常識とされている歴史もいつ何時嘘になるかは分からないのだ。
世界4大文明はもやは嘘っぱちで有り、それより遙かに古い遺跡が世界のあちらこちらから発見され、パキスタンのモヘンジョダロは7000年以上前に都市が放棄されているのだ。
この町は、道が舗装されていて上下水道が完備されていた。
そして何より都市の放棄の理由が核戦争によるものだとされている・・・
リビアには8千年前にウラン発掘の後すら発見されている・・・
さて、我が国の歴史、特に徳川家康に付いて考察する。
天文11年(1542)12月26日寅刻に松平広忠が嫡男として生まれたとされている。
幼名竹千代後に松平元康であり、後に徳川家康となるのは通説である。
世良田二浪三郎元信という人物がいたらしいが、彼こそが後の徳川家康となったという。
この世良田元信とは新田一門で先祖は"得河"姓を名乗っていたという・・・
もし、松平元康が本人であったら、改姓する必要があったのか?
それに家紋まで変えている!!!
日本人として「自分であったとしたら?」と考えて欲しい。
女性ならば結婚すれば姓が変わるが、男なら養子に行くか、天皇陛下から姓を賜る以外、先祖代々の姓を変えるか?である。
家紋も変えている点も不自然である。
我が家の寺は東京の赤坂にある浄土寺である。
この寺の家紋は三ツ葉葵で、徳川家の庇護を受けていた。
このお寺の主として祀られているのは、家康公以前の松平家の殿様である。
墓石に掘られている家紋を見れば、三ツ葉葵ではないのだ!!!
さて、今日の本題は、織田信長公の暗殺事件である"本能寺の変"の黒幕は徳川家康公である説である。
厳密に言えば、徳川家康公と明智光秀が犯人である。
実行者が明智光秀で、裏にいたのが徳川家康公となる。
実は信長公と家康公は、仲が悪かったのだ。
表面上は同盟国だが、これはお互いに助け合いが必要なときには機能するが、片方の力が圧倒すると強い方からは邪魔だし、小さい方からは羨みと妬みが出てくる。
言っておくが戦国時代は、馬鹿殿よりは血は繋がってなくても優秀な跡取りの方が重要であった。
現代と違い親子とは血での繋がりよりも家の繋がりの方が強かった!!!
詰まり、信長公は遅かれ早かれ家康公を亡き者にする計画であった。
これは想像だが、家康公が安土城を訪れる寄りより先に、「家臣になれ」的な会話はあったと思う・・・
自分が信長であったらそうする。
天下布武のよる統一は、一人のみが天下人であるため、他は全て家臣である。
徳川宗家とそれ以外の者との関係は、日本中全てが主従関係である。
朝廷も言うに及ばず、徳川宗家に逆らえば、日本国内誰も生きていけなかった。
詰まり信長公も天下人になれば当然朝廷も含めて主従関係を強要するはずである。
但し、信長公の計画では、中国大陸全てを征服して"皇帝"になることであった・・・
詳しくは別の機会に書くが、家康公暗殺は安土城での公の接待中に毒を盛ることであったらしい。
これを阻止したのが接待役の明智光秀であり、わざと腐った魚料理を出して信長公を激怒させ暗殺の機会を奪ったという。
問題は根強く残る明智光秀は天海大僧正だということだ。
もしこの説が正しいとすると、私の想像だが、光秀は心の強い武士でないため侍と言うよりは公家に近い性格であったので、信長公の度重なる戦に嫌気がさしていて、出家の望んでいて、家康公と何らかの話し合いが付いていた。
逆説的に考えれば、天正10年6月2日(1582年6月21日)の本能寺以外、信長公の暗殺は難しくなる。
あのまま中国地方の毛利征伐に行けば、数ヶ月で毛利は滅ばされるし、その後の九州征伐も数ヶ月であろう。
信長公の前で生き残るためには平伏する以外に方法はない。
詰まり臣下の礼を取る以外に方法がないことは誰でも分かる。
そうなると朝鮮出兵から明国征伐へ乗り出すまで数年もかからない!!!
ここまで来れば、光秀に信長公を討つ機会は皆無となる。
又、徳川家康公として考えれば、徳川家が天下を取るためには、本能寺の時しかチャンスがない!!!
これを逃せば、徳川家は日本から消え去るか、織田家の家臣となるしか取る道がない・・・
つづく