豊臣秀吉が愛した女性"淀君"の母親は、お市の方であるのは誰でも知っている。
では、父親は?
歴史では近江の浅井長政である事になっているが、真実は・・・

お市の方は、信長公の妹君でなく従妹でり同事に、公と秘密の関係であったというのだ!!!
これは江戸時代の大奥の女性の素生について書かれた
以貴小伝という書物に、崇源院(お江の方)の母親はお市の方で、お市の方は織田信長公の従妹であると書かれている。

そう、淀君の父親は信長公だという!!!

だから、豊臣秀吉公は淀君にご執心であった。
妹のお初を京極家へ、そしてお江を佐治一成へ嫁いでいる。
ここで、不思議に思っていたのだが、浅井家の次女であるのに"お初"とは不思議だとおもわないか?
次男が太郎と言うべき事とおなじである。

そして、浅井家の公式歴史書浅井三代記には、長女とされている淀の生まれた記述が無いのだ!!!

浅井長政は織田信長への紹介を美濃の武将に頼んだ手紙が残っている。
この手紙には日付は書かれていなかったが、信長公を"尾張守殿"と呼んでいる。
信長公が尾張守であったのは永禄9年(1566)7月から永禄11年8月までの2年間であるという。
信長記によると永禄10年に信長公はお市を娘分として浅井長政に嫁がせている。(信長記は秀吉公が後に家臣に書かせた日記であるので日本書紀同様眉唾かも・・・為政者が自分の都合良く歴史を改ざんしている恐れあり)

最新の説では淀は近年では永禄12年(1569)だが、なんと永禄9年説まである。
詰まり、信長公と浅井長政が知り合う前に生まれていたことになる。
永禄12年説は、淀が浅井長政とお市の間に生まれた辻褄合わせであろう・・・

となると、父親は信長公となるのが自然だ。
江戸時代まで、結婚の相手は連れ子がいても問題無かったと言うよりも、むしろ好まれたのだ。
子供が産める証拠であった・・・

秀吉公が側室に城を与えたのは淀だけであったし、その寵愛ぶりというか執着ぶりも、主君信長公の娘であったのなら納得出来る。

又、お市の方も越前北ノ庄落城の折、定説では夫柴田勝家と自害したことになっているが、これも伊賀忍者に助けられ伊賀へ落ち延びたという。
伊賀と言えば家康公も絡んでいたと思われる。
伊賀の忍者は徳川家に仕えていたし・・・

450年昔の事も分からないのに、5000年昔の古代エジプトなど分かる筈がないのかもしれない・・・

本当に歴史はミステリーである。