今日、映画"清須会議"のBluRayが届いて、先程観た。
しかし、世の中が三谷幸喜が良いという意味がわからない!!!
カメラ割りも下手だし、カットが下手くそすぎて、意味不明であるが、脚本家だけあって話はそれなりに面白かった。
天正10年6月2日に信長公が本能寺にて、逆臣明智光秀に討たれた所から始まるが、実は本能寺は現代の本能寺より何倍も大きくしっかりとした構えであったらしい。
又、明智の家臣についても書くが、家老斉藤利三らは打ち首物だが、実際に本能寺を攻撃した連中は、自分たちがまさか信長公を攻撃していることは夢にも思っていなかったらしい。
それは当然である。
彼等の雇い主は、明智光秀でなく織田信長であるのであるから・・・
天正10年6月27日に織田家発祥の地である清洲城で、世に言う"清洲会議"が開かれたわけであるが、驚くことに信長公が討たれてから25日後である。
明智光秀の所謂3日天下もまんざら大袈裟でない訳である・・・
さて、歴史書や事典等も大誤解をしている清洲会議である。
私も勘違いしていた。
清洲会議は織田家の跡目相続として、次男織田信雄、三男織田信孝で争われたが、最期に織田信忠の一子三法師君となるわけである。
そして、織田家に代わって天下を盗んだのが羽柴秀吉こと後の豊臣秀吉であるとされた。
しかし、私は今日この認識が間違っていた事に気が付いた。
先ずは天正4年に戻るが、信長公はこの年に織田家家督を長男信忠に譲っている。
詰まり、天正4年から本能寺の変までは織田家当主は詰まり御館様は信長公でなく織田信忠であったのだ。
では信長公は?というと、天下に号令を掛けるべくいわゆる皇帝に近い存在であったのだ。
織田家の殿様となると、織田家の所領の行政をこなさねばならない。
詰まり、一大名家である。
この時点で、徳川家、羽柴家、柴田家、丹羽家、池田家等と同列よりはちょっと前的な存在である。
信長公は大名連邦の上にいる。
もっと分かりやすくUSAを例に言えば、信長公は大統領であって、織田信忠はカリフォルニア州知事、羽柴秀吉はニューヨーク州知事といった立場である。
信忠は信長の長男という立場から、他の連中より一段高いが、織田帝国の後を継ぐかは、この時点では白紙であったはずだ。
信長公は、煩わしい領地行政の仕事を信忠に譲って、日本統一そしてアジア統一を目指していた。
だから、安土城はゆくゆくは織田家の居城として考えていて、自分は取りあえず中国大陸静圧までは大阪城を築城して天下に号令を掛ける計画であった。
秀吉の朝鮮出兵は、信長公の青写真の実行に過ぎないが、ここでも歴史学者の馬鹿共は間違いを犯していうるのだ。
秀吉は朝鮮出兵でなく中国大陸出兵であったのだ。
ずさんな戦略であったため、平壌までは行ったがそれ以上北上出来なかったのだ。
朝鮮半島はあくまで通過点であって、あんな不毛な地帯は要らないのだ!!!
話を清洲会議に戻すと、あくまで織田家渦中の話で、皇帝信長若しくは大統領信長の跡目相続ではないのだ。
だから、織田家の跡目相続は、信長公次男信雄でもなく三男信孝でもなく、織田家当主であった織田信忠の子三法師が継ぐのは当たり前の話であった。
秀吉は大名連邦を纏め、天下統一をしたから関白となったのだ。
彼は織田家を滅ぼしてはいない。
銀座近くの有楽町は、江戸時代織田有楽斎の屋敷があったからその名が付いた。
徳川家の家臣には、織田家、足利家もいたが、豊臣家だけはいなかった・・・
もし、信長公が日本統一をした後で逆臣明智光秀に討たれたら、羽柴筑前守秀吉でも代わって天下は取れなかったはずである。
それをしたら簒奪者の汚名を来て逆臣と云われたはずである。
結局、中国地方、九州、四国、関東、東北を平定したのは、豊臣秀吉であるのだから、紛れもなく秀吉公は英雄であり天下人であるといえる。
しかし、世の中が三谷幸喜が良いという意味がわからない!!!
カメラ割りも下手だし、カットが下手くそすぎて、意味不明であるが、脚本家だけあって話はそれなりに面白かった。
天正10年6月2日に信長公が本能寺にて、逆臣明智光秀に討たれた所から始まるが、実は本能寺は現代の本能寺より何倍も大きくしっかりとした構えであったらしい。
又、明智の家臣についても書くが、家老斉藤利三らは打ち首物だが、実際に本能寺を攻撃した連中は、自分たちがまさか信長公を攻撃していることは夢にも思っていなかったらしい。
それは当然である。
彼等の雇い主は、明智光秀でなく織田信長であるのであるから・・・
天正10年6月27日に織田家発祥の地である清洲城で、世に言う"清洲会議"が開かれたわけであるが、驚くことに信長公が討たれてから25日後である。
明智光秀の所謂3日天下もまんざら大袈裟でない訳である・・・
さて、歴史書や事典等も大誤解をしている清洲会議である。
私も勘違いしていた。
清洲会議は織田家の跡目相続として、次男織田信雄、三男織田信孝で争われたが、最期に織田信忠の一子三法師君となるわけである。
そして、織田家に代わって天下を盗んだのが羽柴秀吉こと後の豊臣秀吉であるとされた。
しかし、私は今日この認識が間違っていた事に気が付いた。
先ずは天正4年に戻るが、信長公はこの年に織田家家督を長男信忠に譲っている。
詰まり、天正4年から本能寺の変までは織田家当主は詰まり御館様は信長公でなく織田信忠であったのだ。
では信長公は?というと、天下に号令を掛けるべくいわゆる皇帝に近い存在であったのだ。
織田家の殿様となると、織田家の所領の行政をこなさねばならない。
詰まり、一大名家である。
この時点で、徳川家、羽柴家、柴田家、丹羽家、池田家等と同列よりはちょっと前的な存在である。
信長公は大名連邦の上にいる。
もっと分かりやすくUSAを例に言えば、信長公は大統領であって、織田信忠はカリフォルニア州知事、羽柴秀吉はニューヨーク州知事といった立場である。
信忠は信長の長男という立場から、他の連中より一段高いが、織田帝国の後を継ぐかは、この時点では白紙であったはずだ。
信長公は、煩わしい領地行政の仕事を信忠に譲って、日本統一そしてアジア統一を目指していた。
だから、安土城はゆくゆくは織田家の居城として考えていて、自分は取りあえず中国大陸静圧までは大阪城を築城して天下に号令を掛ける計画であった。
秀吉の朝鮮出兵は、信長公の青写真の実行に過ぎないが、ここでも歴史学者の馬鹿共は間違いを犯していうるのだ。
秀吉は朝鮮出兵でなく中国大陸出兵であったのだ。
ずさんな戦略であったため、平壌までは行ったがそれ以上北上出来なかったのだ。
朝鮮半島はあくまで通過点であって、あんな不毛な地帯は要らないのだ!!!
話を清洲会議に戻すと、あくまで織田家渦中の話で、皇帝信長若しくは大統領信長の跡目相続ではないのだ。
だから、織田家の跡目相続は、信長公次男信雄でもなく三男信孝でもなく、織田家当主であった織田信忠の子三法師が継ぐのは当たり前の話であった。
秀吉は大名連邦を纏め、天下統一をしたから関白となったのだ。
彼は織田家を滅ぼしてはいない。
銀座近くの有楽町は、江戸時代織田有楽斎の屋敷があったからその名が付いた。
徳川家の家臣には、織田家、足利家もいたが、豊臣家だけはいなかった・・・
もし、信長公が日本統一をした後で逆臣明智光秀に討たれたら、羽柴筑前守秀吉でも代わって天下は取れなかったはずである。
それをしたら簒奪者の汚名を来て逆臣と云われたはずである。
結局、中国地方、九州、四国、関東、東北を平定したのは、豊臣秀吉であるのだから、紛れもなく秀吉公は英雄であり天下人であるといえる。