昨日、東京都知事石原慎太郎氏が、「突然の辞任」と大騒ぎであった。

しかし、「突然の辞任」ではなく、用意周到に水面下で虎視眈々とこの期を狙っていて、満を持しての行動あろう。

神君徳川家康公も、70歳位で、江戸、大阪や、駿府を精力的に行き来していたことは周知の事実である。

"関ヶ原の戦い"は、慶長5年(1600年)10月21日に行われたが、天下分け目の大戦と言われているが、本当であろうか?

関ヶ原の戦いは、何年も前から、作戦を練っていたはずである。
見た目には、秀吉死後、豊臣家を蔑ろにしてきた徳川家康を誅伐するという大義名分だが、これがそもそも間違っている!!!

徳川家康は、豊臣家の家臣となってはいない。
ただ、臣下の礼を取っただけで、豊臣家の禄を食んではにない。
この考え方は、江戸幕府が作りだしたもので、力で無く"法"によっての支配が確立してからのとである。

詰まり、豊臣恩顧の大名といっても、それは豊臣秀吉に対してであって、豊臣家では無い!!!!のである。

もし、関白秀次が、秀吉によって切腹させられていなければ、徳川の御代はなかったはずだ。

では、逆説から想像すると、「秀次は殺さねばならない」と言える。
では、犯人は? 徳川家かも知れない・・・
徳川家には、数多の家臣団があり、武功派、知性派と良い人材に恵まれていたし、信長、秀吉により徹底的に弾圧された"忍衆"を召し抱えたのも家康公である。

伊賀衆がCIAならば、甲賀衆はKGBである。
これらの優れた、諜報部員を数多く抱えていれば、秀吉と秀次を仲違いさせることなど赤子の手を捻る位であったであろう。

因みに、戦後、大日本帝國を腑抜け日本国に、60年以上掛けてじっくりとしたのは、アメリカである!!!

話を関ヶ原の戦いに戻すと、実は戦う前から勝敗が決していたのだ。
ただ、徳川方とすれば、何も事を犯さないでいる奴らを叩いたのでは、世間が許さないから、相手側に戦を行わせる必要があった。

しかし、兵力に格差があれば、計算高いだ妙連中は、反徳川の旗を揚げないから、兵力はトントンに見せる必要があった。

まんまと引っかかりたたきつぶされたのである!!!

歴史では、徳川秀忠率いる徳川精鋭部隊が、戦に遅参するが、これははっきり言って、作戦である。
わざと温存したら、諸大名から恨みを買うので、中山道で真田にやられたと言うことにしたのだ。
真田の知将振りは、全国に轟いていたし、「若い秀忠ではしかなたい」となる。

何故、私の説が正かというと、その後の真田の処遇を観れば、明らかだ。
本領安堵と分家の松代藩までもらい、幕末まで続いたのだ。

だから、島津家に対しても、裏があるはずである。
家康公は、島津家を潰したかったと言うが、心の何処かにはあったかも知れないが、裏の取り決めがあったと思う。
家康公死後、島津家を潰す機会はいつでもあった。
徳川家にしてみれば、島津より潰したかったのは、陸奥守伊達家である。

その証拠を、私は又々発見してしまった!!!
日光東照宮の"眠り猫"を見て欲しい!!!
この猫は、顔を寝ているが、耳がピンッとたっていて、辺りを伺っているのだ。

その猫を潜り、丁度猫の裏側を見て欲しい!!!
そこには、竹藪の中に雀が戯れているのだ。
「竹に雀」そう、伊達家の家紋である!!!
まあ、上杉家も同じではあるが・・・

ならば、伊達家と上杉家両方を注意していてのかもしれない・・・

詰まり、物事は突然動いているように見えても、実はそれより遙か前に、そして、水面下では、激しく動いているものである。

石原慎太郎は、今年80歳!!!
都知事を途中で投げ出すのか?と言う奴らもいるが、40代、50代でならそうだが、80代ならば、2年後の保証は無いかも・・・