最近、悲惨な交通事故のニュースが多い。
先日も、関越自動車道で、高速バスが訳が分からない様な事故で、乗客の"尊い"命が奪われた。
しかし、人間の命って本当に"尊い"の?
何故、"生きとし生けるもの"命に、軽い重いがあるのか?
これって、人間の傲慢な考え方ではないのか?
よくTVの野生動物番組で、ヌーの群れやシマウマ等の群れの映像に、ライオンの群れが襲いかかるシーンがある。
詰まり、彼ら草食動物の群れは、今日が終わって明日が来たとき、群れのメンバーが同じ事はないのだ。
誰かが死ぬし、食べられるのである。
ライオンの群れすら、この宿命から逃れられないのだ。
怪我をしたら、それは"死"を意味するし、老衰が来れば、死ぬのが早いか、ハイエナ等に食べられるのが早いかである。
それに引き替え、人間はどうか?
しかし、現実は多くの人間が、毎日死んでいくのである。
今日との交通事故もそうであるが、引かれた方、詰まり被害者はどうであったか?
我々の日常を、皆思い出して欲しい!!!
家を出たら、危険だらけである事を認識しているのであろうか?
信号待ちでも、馬鹿が車道とのギリギリに立っていたり、ヘッドフォンで耳を塞いでいたりして、万が一、居眠りや、気違いが、車で突っ込んでくることなど、考えていないのだ。
これは、自業自得である。
常に、最悪を想定していなければならない。
車を運転していて、馬鹿な歩行者が「自殺したいのか!!!この馬鹿」と思ったことは、一度や二度でないはずだ。
詰まり、歩行者や自転車は「車が避けてくれる」という幻想を抱き、"自分の命"を何故訳も分からない"他人"の手に握らせる必要があるのか?
先日、茗荷谷に行って、信号待ちをしていたら、無意識に電柱の影に入って立っている自分がいた。
車が突っ込んできても、電柱やガードレールがあれば、逃げるチャンスと怪我をするリスクがかなり軽減する。
馬鹿なTVコメンテーターは、「自動車メーカーに子供がぶつかっても、怪我をしないような車作り」とか、馬鹿な事を言っていたが、アホかである。
ガキに「家から出たら危険だ」を徹底的に教える事が重要である。
それと、住宅地、信号のない横断歩道、止まれの標識前に、バンプ(20㎝ぐらいの凸)を設置すれば、車は徐行せざるおえないのである。
これならば、信号機を設置するより遙かに安い経費である。
バンプ代と"この先バンプ有り"の標識代だけで、歩行者は絶対安全である。
こう言っては何だが、先日のバス事故で、警察もマスコミも騒いでいるが、自殺者は毎日100人弱である!!!
我々の歳になると、そろそろ病気で死ぬ友人が出始める。
昔、20代の頃、会社の上司が病死した。
彼と同期の男と飲みに行ったが「君の歳だと未だ分からないと思うけれど、俺の歳だと病気で行く奴が増えてくるんだよ。これってこたえるよ!!! 俺たちもそういう歳かって・・・」という言葉を思い出した。
我々は、この世に産まれた瞬間から、死へ向かっているのだ。
死は、別に縁遠いものでなく、日常に潜んでいる。
その死を、"どう迎えるか"は、他の動物と違って、我々はある程度考えられる。
避けて通れないものならば、「自分の死をどう迎えたいか」ぐらいは、普段から考えるべきである。
そして、いつ何時"死"が来るかもと思い「一期一会」を大切にすべきである。
先日も、関越自動車道で、高速バスが訳が分からない様な事故で、乗客の"尊い"命が奪われた。
しかし、人間の命って本当に"尊い"の?
何故、"生きとし生けるもの"命に、軽い重いがあるのか?
これって、人間の傲慢な考え方ではないのか?
よくTVの野生動物番組で、ヌーの群れやシマウマ等の群れの映像に、ライオンの群れが襲いかかるシーンがある。
詰まり、彼ら草食動物の群れは、今日が終わって明日が来たとき、群れのメンバーが同じ事はないのだ。
誰かが死ぬし、食べられるのである。
ライオンの群れすら、この宿命から逃れられないのだ。
怪我をしたら、それは"死"を意味するし、老衰が来れば、死ぬのが早いか、ハイエナ等に食べられるのが早いかである。
それに引き替え、人間はどうか?
しかし、現実は多くの人間が、毎日死んでいくのである。
今日との交通事故もそうであるが、引かれた方、詰まり被害者はどうであったか?
我々の日常を、皆思い出して欲しい!!!
家を出たら、危険だらけである事を認識しているのであろうか?
信号待ちでも、馬鹿が車道とのギリギリに立っていたり、ヘッドフォンで耳を塞いでいたりして、万が一、居眠りや、気違いが、車で突っ込んでくることなど、考えていないのだ。
これは、自業自得である。
常に、最悪を想定していなければならない。
車を運転していて、馬鹿な歩行者が「自殺したいのか!!!この馬鹿」と思ったことは、一度や二度でないはずだ。
詰まり、歩行者や自転車は「車が避けてくれる」という幻想を抱き、"自分の命"を何故訳も分からない"他人"の手に握らせる必要があるのか?
先日、茗荷谷に行って、信号待ちをしていたら、無意識に電柱の影に入って立っている自分がいた。
車が突っ込んできても、電柱やガードレールがあれば、逃げるチャンスと怪我をするリスクがかなり軽減する。
馬鹿なTVコメンテーターは、「自動車メーカーに子供がぶつかっても、怪我をしないような車作り」とか、馬鹿な事を言っていたが、アホかである。
ガキに「家から出たら危険だ」を徹底的に教える事が重要である。
それと、住宅地、信号のない横断歩道、止まれの標識前に、バンプ(20㎝ぐらいの凸)を設置すれば、車は徐行せざるおえないのである。
これならば、信号機を設置するより遙かに安い経費である。
バンプ代と"この先バンプ有り"の標識代だけで、歩行者は絶対安全である。
こう言っては何だが、先日のバス事故で、警察もマスコミも騒いでいるが、自殺者は毎日100人弱である!!!
我々の歳になると、そろそろ病気で死ぬ友人が出始める。
昔、20代の頃、会社の上司が病死した。
彼と同期の男と飲みに行ったが「君の歳だと未だ分からないと思うけれど、俺の歳だと病気で行く奴が増えてくるんだよ。これってこたえるよ!!! 俺たちもそういう歳かって・・・」という言葉を思い出した。
我々は、この世に産まれた瞬間から、死へ向かっているのだ。
死は、別に縁遠いものでなく、日常に潜んでいる。
その死を、"どう迎えるか"は、他の動物と違って、我々はある程度考えられる。
避けて通れないものならば、「自分の死をどう迎えたいか」ぐらいは、普段から考えるべきである。
そして、いつ何時"死"が来るかもと思い「一期一会」を大切にすべきである。