先日、遂に偉大なるマンネリ水戸黄門が最終回を迎えた。
今にして思えば、私が小学生の頃、良く祖母と東野英二郎の水戸黄門を観ていた記憶がある。
今も、西村晃の水戸黄門をTBSchで観ていたが、やはり面白い。
しかし「先の副将軍」は、幕府には存在しない役職である。
昔は「先の中納言」と言っていたが、これは正しい。
そもそも、我々が征夷大将軍と言っている将軍様は、江戸時代には存在しない。
というより、将軍とは誰も呼んでいないのだ。
では、日本中の人は何と呼んでいたか?
「公方様」である。
公方は、天皇に対しての呼び名である。
作ったのは、足利義満であったらしい。
彼は、天皇を超えたかったので、征夷大将軍では、朝廷の武官であるし、そんなに偉い役職でも無い。
坂上田村麻呂は確か、三位であったが、後には四位の役職である。
では、徳川公方様はどのぐらいの地位かというと、最低でも二位で、左大臣である。
通常、一位で太政大臣の役職を、朝廷より貰っている。
と言うことは、遙かに低い征夷大将軍を貰って喜んで使うであろうか?
想像してみて欲しい。
今、日本の果てまで来たとして、そこから見える絶景がある。
自分が公方様であったら「この土地は誰のものだ?」と土地の者に聞けば、間違えなく「公方様の土地にございます」と返ってくる。
それ程の権力者である。
現代風に言えば、本社専務取締役兼、東北支社長がいたとすれば、皆は彼を何と呼ぶか?
「支社長」とは呼ばずに「専務」と呼ぶだろう。
これと同じである。
豊臣秀吉は、関白である。
征夷大将軍から見れば、雲の上の位である。
誰が欲しがるか!!!である。
まあ、馬鹿な学者が、源頼朝が征夷大将軍を貰ったから、それと幕府を組み合わせたのだと思うが・・・
頼朝が、征夷大将軍をもらう前から、幕府は既に存在しており、征夷大将軍は、奥州藤原氏を討伐するために貰った位に過ぎない。
だから、武家の棟梁は、将軍ではなく、公方なのである。
何かで読んだが、江戸時代に上様に対して「将軍様」と言ったら首が飛んだらしい。
話は、戻るが、光圀は、当初、水子にされる運命だったらしいが、家臣の機転により家臣の子として生を受けたらしい。
成長してと言っても、元服前だと思ったが、家臣は藩主頼房に真実を話した。
頼房は怒ること無く光圀を受け入れた。
三男ではあったが、頼房は光圀中に、藩主としての才を見いだし、水戸家の家督を譲ったらしい。
しかし、光圀は実兄頼重を差し置いて自分が水戸家藩主になったことを悩んでいたらしい。
自身の長男(確か側室の子)が出来たとき、家臣に「水子にするよう」と命じたという。
この時、正室が病だったと思った。
言われた家臣は、思い倦ねて、高松藩主松平頼重に江戸城内で相談すると、自分が引き取ると言った。
後日、その話を光圀が聞くと、兄に会い、頭を下げ、兄の長男を養子として水戸家に迎えた。
それが徳川綱枝である。
私の友人に、高松松平家の奴がいるが、ムカ付くことに、そいつは水戸光圀の血を引いていることになる。
話が長くなったが、事実は、光圀は副将軍でも無く、諸国は漫遊していない。
光圀が行った場所と言えば、日光と熱海である。
熱海は、父頼房が、病に倒れたとき、上様より御自身の「熱海別邸に行き、湯に浸かるように」との仰せに従い、光圀は同行したのである。
それに、元禄時代は、時代劇ほど町人が旅を出来たとは思えない。
天保以降なら、旅行ブームがあり、町人達も神社仏閣参りをだしに、温泉ツアーに行ったという。
やはり人気なのは、箱根である。
その頃は、湯治が主で、七日間×3週が常で、温泉に行ったら、21日間は、湯治場に逗留したらしい。
それを旅行者は、限られた日数であっちこっち行きたいから、宿には一泊で次に行くらしい。
今の我々と何も変わらないのが面白い。
そこで、当然一夜の宿は、儲かる。
湯治場の客が減ってくる。
それで、小田原、箱根の湯治場の連中が、奉行所に訴えたらしい。
しかし、当時の裁判所は、粋な判決を出した。
「構い無し」である。
詰まり、湯巡りの旅を幕府が公認したのだ。
これ以降、更に旅行ブームに拍車が掛かったのは言うまでも無い。
今にして思えば、私が小学生の頃、良く祖母と東野英二郎の水戸黄門を観ていた記憶がある。
今も、西村晃の水戸黄門をTBSchで観ていたが、やはり面白い。
しかし「先の副将軍」は、幕府には存在しない役職である。
昔は「先の中納言」と言っていたが、これは正しい。
そもそも、我々が征夷大将軍と言っている将軍様は、江戸時代には存在しない。
というより、将軍とは誰も呼んでいないのだ。
では、日本中の人は何と呼んでいたか?
「公方様」である。
公方は、天皇に対しての呼び名である。
作ったのは、足利義満であったらしい。
彼は、天皇を超えたかったので、征夷大将軍では、朝廷の武官であるし、そんなに偉い役職でも無い。
坂上田村麻呂は確か、三位であったが、後には四位の役職である。
では、徳川公方様はどのぐらいの地位かというと、最低でも二位で、左大臣である。
通常、一位で太政大臣の役職を、朝廷より貰っている。
と言うことは、遙かに低い征夷大将軍を貰って喜んで使うであろうか?
想像してみて欲しい。
今、日本の果てまで来たとして、そこから見える絶景がある。
自分が公方様であったら「この土地は誰のものだ?」と土地の者に聞けば、間違えなく「公方様の土地にございます」と返ってくる。
それ程の権力者である。
現代風に言えば、本社専務取締役兼、東北支社長がいたとすれば、皆は彼を何と呼ぶか?
「支社長」とは呼ばずに「専務」と呼ぶだろう。
これと同じである。
豊臣秀吉は、関白である。
征夷大将軍から見れば、雲の上の位である。
誰が欲しがるか!!!である。
まあ、馬鹿な学者が、源頼朝が征夷大将軍を貰ったから、それと幕府を組み合わせたのだと思うが・・・
頼朝が、征夷大将軍をもらう前から、幕府は既に存在しており、征夷大将軍は、奥州藤原氏を討伐するために貰った位に過ぎない。
だから、武家の棟梁は、将軍ではなく、公方なのである。
何かで読んだが、江戸時代に上様に対して「将軍様」と言ったら首が飛んだらしい。
話は、戻るが、光圀は、当初、水子にされる運命だったらしいが、家臣の機転により家臣の子として生を受けたらしい。
成長してと言っても、元服前だと思ったが、家臣は藩主頼房に真実を話した。
頼房は怒ること無く光圀を受け入れた。
三男ではあったが、頼房は光圀中に、藩主としての才を見いだし、水戸家の家督を譲ったらしい。
しかし、光圀は実兄頼重を差し置いて自分が水戸家藩主になったことを悩んでいたらしい。
自身の長男(確か側室の子)が出来たとき、家臣に「水子にするよう」と命じたという。
この時、正室が病だったと思った。
言われた家臣は、思い倦ねて、高松藩主松平頼重に江戸城内で相談すると、自分が引き取ると言った。
後日、その話を光圀が聞くと、兄に会い、頭を下げ、兄の長男を養子として水戸家に迎えた。
それが徳川綱枝である。
私の友人に、高松松平家の奴がいるが、ムカ付くことに、そいつは水戸光圀の血を引いていることになる。
話が長くなったが、事実は、光圀は副将軍でも無く、諸国は漫遊していない。
光圀が行った場所と言えば、日光と熱海である。
熱海は、父頼房が、病に倒れたとき、上様より御自身の「熱海別邸に行き、湯に浸かるように」との仰せに従い、光圀は同行したのである。
それに、元禄時代は、時代劇ほど町人が旅を出来たとは思えない。
天保以降なら、旅行ブームがあり、町人達も神社仏閣参りをだしに、温泉ツアーに行ったという。
やはり人気なのは、箱根である。
その頃は、湯治が主で、七日間×3週が常で、温泉に行ったら、21日間は、湯治場に逗留したらしい。
それを旅行者は、限られた日数であっちこっち行きたいから、宿には一泊で次に行くらしい。
今の我々と何も変わらないのが面白い。
そこで、当然一夜の宿は、儲かる。
湯治場の客が減ってくる。
それで、小田原、箱根の湯治場の連中が、奉行所に訴えたらしい。
しかし、当時の裁判所は、粋な判決を出した。
「構い無し」である。
詰まり、湯巡りの旅を幕府が公認したのだ。
これ以降、更に旅行ブームに拍車が掛かったのは言うまでも無い。