八百長問題で、人気が低迷気味の相撲だが、あれはあれで、実際に国技館へ行って、相撲を見れば、その迫力に圧倒される。

そこで、問題なのが、そもそも「相撲はスポーツか?」である。

例えば、柔道である。
昔は、柔術であった。 剣道も剣術である。
学生時代、空手道場に通っていたが、そこで師匠が私の言った言葉が耳に残っている。
「今の空手は、スポーツである。 術としての空手は、大人にしか教えない。 何故ならば、スポーツは、楽しむためだが、術は身を守るために、相手を殺すことが目的だからだ」であった。
成る程、剣術は、柳生心影流を初めとして、如何に相手を殺すかにあるし、柔術も武士等が身に付ける、刀が無いときの戦いであった。

確か、松本清張の時代小説を読んだとき、歴代の剣士で最強は、柳生十兵衛三厳であるという。
彼は、当然柳生心影流の使い手であったが、それ以上に凄いのが、所謂「空気投げ」の達人であったらしい。
詰まり、相手に触れずに「気」で投げてしまうらしい。
敵に囲まれても、その間を縫っただけで、相手は倒れているというのだ。
これ程の最強の男の死因が「梅毒」であったことが、何故が人間的魅力を感じるのは私だけであろうか?
結局「男を殺せるのは、女かよ」である。

詰まり、柔道も昔は「一本勝ち」以外の勝ちは無く、時間制限も無かった。
体重別も無いから「柔よく剛を制す」という言葉が生まれたのだ。
しかし、オリンピック種目隣、国際的スポーツになった時点で、訳の分からない判定だとか、体重別とか、時間制限とかが出来たお陰で、柔道は死んだのだ。

では、相撲はどうだろうか?
スポーツだとすれば、体重別にならないと、フェアーでない。
詰まり、小錦 対 舞の海は、スポーツの観点から見れば、あり得ないが、相撲としては、見応えのある取り組みで、見ているものを沸かせた。

相撲とは、神事であり、あれは八百万の神々へ捧げるものである。
これは、祭の一つだと言える。

それに、八百長問題など、昔から言われてきたことで、何を今更である。

本当に、角界を変えたいなら、理事長は民間から連れてこなければならない。
私が子供の頃「デブで馬鹿は相撲取りしかない」と言われていた。
だから、親方衆は馬鹿なのだ。
といより、角界では凄い人たちなのだが、一般社会からすると「純粋すぎる」から騙されやすいのである。

相撲は神事、楽しめば良いのである。