浅野内匠頭長矩は、元禄14年3月14日の巳の刻に殿中松の廊下で、高家衆筆頭吉良上野介義央に何を思ったかいきなり切りつけた。
それだけでも気違い沙汰なのに、その後が無責任野郎丸出しであった。
大目付の質問に「意趣遺恨のある喧嘩でござる」と言い張ったのだ。
大目付多門伝八郎重共(おかどでんぱちろうしげとも)が「乱心でしょう?」とか「乱心なら責めは貴殿の切腹のみだが、喧嘩となると御家取り潰しでござるぞ」とか、散々意見をしたとされるが、馬鹿殿は「それがしは、決して乱心しておりません。これは喧嘩でござる」と言い続けたとされる?
ここまで読んで、浅野の責任感の欠如や、自分は正常だと言い張る奴に限って精神異常であるので、やはり此奴は頭パー状態であるとしか思えない。
ここで、もう一度書くが、幕府の裁定は、浅野が吉良に切りつけた事のみで裁いているのである。
いや、江戸時代の刑法は実に気持ちが良いし、分かりやすい。
頭パーでも裁かれるからね。
綱吉公の逆鱗に触れるのも納得である。
それに、馬鹿殿浅野は「私は正常です」と言っているのだから、切腹の上、御家断絶は御法にのっとても決して厳しい判決では無い。
もし、馬鹿殿が「乱心しました。申し訳ございません」と言っていれば、切腹のみで、播州浅野家は、弟大学が後を継いで、何事も無かったはずだ。
しかし、浅野家断絶が決定されるまで、1年ぐらい掛かったと思ったが、この間、大石内蔵助は幕府に藩再考の嘆願書を何度となく送っている。
それと、老中の中には、「浅野頭おかしい」を知っていた節があるらしい。
だから、老中と大石は、浅野家再考を画策していたらしい。
我々が歴史で習った譜代大名、外様大名の概念は、事実は違っている。
私の友人に、堀家の末裔がいるが、彼のご先祖が、不忍池を作ったらしい。
それと、今の新潟県長岡市を築いたのも堀の殿様である。
文京区にある吉祥寺(寺)は、元々堀家の屋敷跡であった。
彼の話によると、堀家は元々豊臣秀吉の小姓であったが、家康公に気に入られ、秀忠公とも仲が良かったらしい。
特に秀忠公が幾度となく、堀の屋敷に遊びに来ていたらしい。(言うまでも無いが、上様お昼寝の折は、堀家として家中の女が添い寝をしていた)
今の皇太子妃雅子様も堀家の家来筋であり、実は江戸時代に天皇家へ嫁いだ姫君、徳川和子(まさこ)も「まさこ」であり、これも秀忠公が堀家へ遊びに来た折に、お手が付いた女性が産んだ子である。
つまり、堀家から2人の「まさこ」が天皇家へ嫁いだことになる。
藤堂高寅も外様大名だが、家康公に可愛がられていた。
因みに、江戸時代、芸州浅野家本家は、松平性を名乗っていた。
しかし、幕府の裁定は覆らなかった。
そもそも、内匠頭長矩切腹は、上意であり、なによりも本人が「正気だと」言い張ったのだから、これは自白で、今の裁判でも有罪になる証拠である。
こうして、正式に浅野家断絶となったとき、大石内蔵助の復讐が始まるのである。
つづく
それだけでも気違い沙汰なのに、その後が無責任野郎丸出しであった。
大目付の質問に「意趣遺恨のある喧嘩でござる」と言い張ったのだ。
大目付多門伝八郎重共(おかどでんぱちろうしげとも)が「乱心でしょう?」とか「乱心なら責めは貴殿の切腹のみだが、喧嘩となると御家取り潰しでござるぞ」とか、散々意見をしたとされるが、馬鹿殿は「それがしは、決して乱心しておりません。これは喧嘩でござる」と言い続けたとされる?
ここまで読んで、浅野の責任感の欠如や、自分は正常だと言い張る奴に限って精神異常であるので、やはり此奴は頭パー状態であるとしか思えない。
ここで、もう一度書くが、幕府の裁定は、浅野が吉良に切りつけた事のみで裁いているのである。
いや、江戸時代の刑法は実に気持ちが良いし、分かりやすい。
頭パーでも裁かれるからね。
綱吉公の逆鱗に触れるのも納得である。
それに、馬鹿殿浅野は「私は正常です」と言っているのだから、切腹の上、御家断絶は御法にのっとても決して厳しい判決では無い。
もし、馬鹿殿が「乱心しました。申し訳ございません」と言っていれば、切腹のみで、播州浅野家は、弟大学が後を継いで、何事も無かったはずだ。
しかし、浅野家断絶が決定されるまで、1年ぐらい掛かったと思ったが、この間、大石内蔵助は幕府に藩再考の嘆願書を何度となく送っている。
それと、老中の中には、「浅野頭おかしい」を知っていた節があるらしい。
だから、老中と大石は、浅野家再考を画策していたらしい。
我々が歴史で習った譜代大名、外様大名の概念は、事実は違っている。
私の友人に、堀家の末裔がいるが、彼のご先祖が、不忍池を作ったらしい。
それと、今の新潟県長岡市を築いたのも堀の殿様である。
文京区にある吉祥寺(寺)は、元々堀家の屋敷跡であった。
彼の話によると、堀家は元々豊臣秀吉の小姓であったが、家康公に気に入られ、秀忠公とも仲が良かったらしい。
特に秀忠公が幾度となく、堀の屋敷に遊びに来ていたらしい。(言うまでも無いが、上様お昼寝の折は、堀家として家中の女が添い寝をしていた)
今の皇太子妃雅子様も堀家の家来筋であり、実は江戸時代に天皇家へ嫁いだ姫君、徳川和子(まさこ)も「まさこ」であり、これも秀忠公が堀家へ遊びに来た折に、お手が付いた女性が産んだ子である。
つまり、堀家から2人の「まさこ」が天皇家へ嫁いだことになる。
藤堂高寅も外様大名だが、家康公に可愛がられていた。
因みに、江戸時代、芸州浅野家本家は、松平性を名乗っていた。
しかし、幕府の裁定は覆らなかった。
そもそも、内匠頭長矩切腹は、上意であり、なによりも本人が「正気だと」言い張ったのだから、これは自白で、今の裁判でも有罪になる証拠である。
こうして、正式に浅野家断絶となったとき、大石内蔵助の復讐が始まるのである。
つづく