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   落柿舎は、松尾芭蕉の蕉門十哲のひとりであった向井去来が1686年から閑居した草庵跡で、庭に40本あった柿の木の実が、嵐によって一晩で落ちてしまったことから「落柿舎」とよばれています。向井去来は長崎で生まれ、上洛して公家の堂上家に仕えていたが、それを辞して芭蕉について俳諧の道に進みました。落柿舎では、去来は「落柿舎制札」を定め、俳諧道場として農夫・町民も自由に出入りさせていました。師の芭蕉は去来のことを「洛陽に去来ありて、鎮西に俳諧奉行なり」と褒めています。また、芭蕉は落柿舎がお気に入りで、1691年4月から5月までここに滞在して、落柿舎での滞在中の生活や、弟子たちとの交流の様子を記した「嵯峨日記」を著し、その際に「五月雨や色紙へぎたる 壁の跡」という句を詠んでいます。現在の落柿舎は、江戸中期の僧・俳人の井上重厚が、1770年に再建したものです。
  最初の写真は落柿舎の門です。次は茅葺きの本庵で、入口に4畳半 奥に3畳ほどの部屋があります。その土壁に、かつて主の在宅を告げた笠と蓑が掲げられています。次は句会席として用いられる次庵です。次は庭の奥の藤棚です。次は藤棚の手前に設けられた鹿威しです。次は庭の一隅に建てられた「柿主や梢は近きあらし山」の去来の句碑です。次は本庵の前の嵐山を借景とした庭で、右手にたくさんの柿の実が見えます。
(2016年11/25撮影)