「28:神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています。(中略)
30:神は、あらかじめ定めた人たちをさらに召し、召した人たちをさらに義と認め、義と認めた人たちにはさらに栄光をお与えになりました。」ローマ8:28,29

 これはオルド・サルティスすなわち神が私たちを救う順序、を教えている典型的な聖書箇所である。その順序とは、<予定→召し→義認→栄光を与える>である。このうちの「召し」とは、神が世の始まる前にキリストにあって子とすることを予定した者を、歴史の中で実際に救い出すわざを意味している。神学においては、「召し」の説明には、ピリピの女性実業家ルデヤを主がパウロの説教をもちいてお召しになった記事が引用されることが多い。

「リディアという名の女の人が聞いていた。ティアティラ市の紫布の商人で、神を敬う人であった。主は彼女の心を開いて、パウロの語ることに心を留めるようにされた。」(使徒16:14)

 そうして、外側からは伝道者による福音の説教が、内側からは聖霊による照明があって、召しが有効になるのだと説明される。それは確かにその通りなのである。だが、自分自身がキリストに導かれるプロセスの中にあったさまざまな出会いや出来事を思うとき、神による「召し」を福音の説教と聖霊の内的照明だけで説明しきったとしてしまうのは、いかがなものかと思われる。つまり、神の摂理によって人生の中にさまざまな伏線が用意されているところから、「召し」のわざは始まっていたのだと考えるべきではないのか、ということである。