神学生時代、筆者は稀代の説教者小畑進牧師の「釈義から説教へ」のクラスと「説教演習」を受講した。その際、先生が受講者に配布してくださったのが、下の説教チャートである。もう少し大きくないと何が書いてあるのかよく見えないのだが、これ以上大きくできないので悪しからず。



 実は、小畑先生はこのチャートについてほとんど説明をなさらなかった。自分で説教に取り組みながら、このチャートの理解を深めていけという意図だったのではないかと私は解釈した。だから、私はこのチャートをプラスチックケースに入れて机上に置きいつでも眺められるようにしてきた。39年間、説教者として格闘してきたことから、小畑先生がくださった宿題に現時点の回答を書いてみたい。

 

1.当たり前のことは言うな

 さて全体の構図は、神殿を正面から見たかたちであり、中央上部に掲げられた看板には「啓発的であること(当たりのことは言うな)」とある。その下に真・善・美とある。あるテクストに相対するとき、その特徴を捉え、聖霊が、「これがメッセージだ。これを伝えよ。」とおっしゃることを聴き取り捉えること。これは、下の堂内の1「特色・・そのテキストでなければ言えないことを語る」と同じ。
 

2.説教は総合芸術である

 神殿を支える右の柱には「説教は総合芸術」と理念が書かれており、説教は霊性・信仰・学識・教養・品性・生活etc.の総合芸術なのだと説明がついている。「説教を総合芸術である」とするのが、小畑進先生の一番の特色であろう。高い学識があっても力のない説教者はままいる。雄弁で人を惹きつけるものはあるが、品性下劣では主の役に立たない。祈りに熱心であるけれど、学識不足なために説得力に欠く説教者もいる。主の日の講壇では立派だけれど、後の六日間の生活を信徒が垣間見て、説教が単なるきれいごととしか聞こえない場合もある。説教は霊性・信仰・学識・教養・品性・生活などの総合芸術、全人格的なわざである。たいへん困難なことである。

 

3.交響曲的編成

 左の柱には「交響曲的編成」と書かれていて、その下に「序破急」「起承転結」「主題提唱」「思想貫徹」とある。これは説教を構成する上での心得である。聖書テクストの特色、説教者の得手不得手によって、序破急という展開を採用するのか、起承転結を採用するのか、それとも他の構成を採るのかを決める。

 「序破急」とは世阿弥の『風姿花伝』にあるように、「序」まずおもむろにスタートし、次に展開するのが「破」であり、さらにクライマックスに向けて「急」にテンポを上げて頂上に達し、パッ終わる。残る余韻。

 「起承転結」は、「起」は主題を提唱して、その主題を受けてスタンダードな話をしていくのが「承」であり、それで話が終わると思いきや、「だが果たしてそうでしょうか?」と改めて新しいことを提示し意表をつくのが「転」であり、そして、スタンダードと新しいことを総合するのが「結」となる。カギは「転」にある。こうして説明すると、起承転結は弁証法であることに気づいた。

 説教の構成については、他にも「序論本論結論」というスタイルや、講解説教者の場合「ランニングコメンタリー風の展開」が多いだろう。ランニングコメンタリー風の展開の長所は、みことばの一言一句を大切に語ることで、信徒のみことばに対する信頼を醸成すること、また、説教者が自分の言いたいことを言わず、また、言いづらいことも神のことばとして語らざるを得ないように縛られることがあろう。だがランニングコメンタリー風の説教は、えてして説教でなく退屈な聖書の説明になってしてしまう。それを避けるには、当該テキストを区分して小見出しを付けて、当該テキスト自体の流れを構成として、説教の構成にメリハリをつけることである。

 どのような構成をもって話をするとしても、「主題提唱」「思想貫徹」は大事なことである。あれこれ話して、いったい今日のメッセージは何だったかわらかないようなことになるなということである。主題貫徹の見本は、ベートーベンの「運命」だろう。もし「今日の説教で言いたいことは何ですか?」と問われたら、一文で、「これこれこういうことです」といえなくてはならない。その主題は最初に書いたとおり「これがメッセージだ。これを伝えよ。」とおっしゃることを聴き取ったことである。もっともベートーベンの「運命」は主題貫徹しすぎていて、いささか単調に感じなくもない。テーマが一つ貫徹していて、しかも、多様な広がりがあること、多様な豊かさはあるがバラバラにならず一つのまとまりがあることである。多様性と統一性。

 

4.特色・活写・同感

 神殿内に「1.特色<そのテキストでなければ言えないことを語る> 2.活写<聖書記者・聖霊の意図と一体と成る> 3.同感<実存的に自分だったらと突き詰める>」とある。

(1)特色

 特色とはそのテクストに特徴的な教理・教訓を見出すことである。そのテキストでなければ言えないことを語るようにしなければ、「**先生は、聖書のどこから話しても、結論はいつも同じ『伝道しましょう』だ。寝ててもわかる。」ということになりかねない。また、教理をしっかり把握しなければ、説教ではなく単なる感話やお話に終わってしまう。教理を正確に把握するためには、原典釈義だけやっていて、聖書を通して神が語られるメッセージがとらえられるわけではない。釈義神学・組織神学・歴史神学・実践神学が動員される必要がある。実践神学の一部として、ここ30年ほど心理学的理解が流行していて、時には有効であるが、その観点からばかり解釈してはいけない。

(2)描写

 福音書であれ歴史書であれ書簡であれ、釈義において見出された状況をよくわきまえて活写する。会衆はそれによって、テキストを体験することになる。それには表現力が必要である。福音書であるならば、主イエスと出会った人々のようす、弟子たちの反応、主イエスの眼差し、吹く風、空の色、日差しが見えてくるように描写する。そういう描写力は物語文学や小説が参考になる。書簡であるならば、その手紙が書かれた事情をよく捉えて、その手紙の宛先の町の気風なども把握して、書き手と受け手の心の通い合い、ぶつかり合いを表現することである。小畑先生のサムエル記から説教の文体は、平家物語のような軍記物の勇壮な文体を感じさせられた。

(3)同感

 神学的洞察があって聖書を正確に理解しメッセージを把捉できる。表現力はメッセージを伝えるために有用である。しかし表現力に頼みすぎると、単なる話術や芸に終わってしまう。面白いかもしれないが、落語を聞いたり演劇を見たりするようなことで終わってしまうだろう。そこに人生を変える力はない。神のことばが迫力をもって語られるためには、説教者自身が神のことばに賭けて生きているという実存的な態度が必須である。説教者自身がみことばに聴き、警告にはおののき、約束ならば感謝してしっかりと握りしめ、命令ならが従うという生き方である。

 

5.SOLI DEO GLORIA

 そして、中央の下にすべてを支える「神意」があり、SOLI DEO GLORIAとある。すべての聖書解釈と説教は、人間にではなく、ただ神に栄光を帰するものであらねばならない。