1 創世記における「神のかたち・似姿」

 

創世記1:26,27

 神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたち(ツェレム)として、われわれの似姿(デムート)に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」
 神は人をご自身のかたち(ツェレム)として創造された。神のかたち(ツェレム)として人を創造し、男と女に彼らを創造された。

 

創世記5:1-3

これはアダムの歴史の記録である。神は、人を創造したとき、神の似姿(デムート)として人を造り、
男と女に彼らを創造された。彼らが創造された日に、神は彼らを祝福して、彼らの名を「人」と呼ばれた。
アダムは百三十年生きて、彼の似姿(デムート)として、彼のかたち(ツェレム)に男の子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。

 

創世記9:6

6,人の血を流す者は、人によって血を流される。神は人を神のかたち(ツェレム)として造ったからである。

 

 新改訳2017では、ツェレムは「かたち」、デムートは「似姿」と訳すことにしているようである。古代教父エイレナイオスやオリゲネスは、ツェレムとデムートの意味を前者を自然的次元のもの、後者を恩寵的次元のものとして解釈した。これは終末的完成を視野に入れた解釈としては意義あるものである。しかし、釈義的にいえば、上に掲げた創世記の引用を見るならば、宗教改革者がいうように、明らかにこれら二つの語は互換的に使われている。

 

2 新約聖書における「神のかたち」は御子を指す

 

(1)「神のかたち」は御子である

 

 ヘブル語旧約聖書からギリシャ語新約聖書への用語的な橋渡しと位置付けられる七十人訳ギリシャ語旧約聖書では、ツェレムはエイコーン、デムートはホモイオーシスと訳された。新約聖書において、神の「かたち」と訳されることばとして採用されたのはエイコーンであって、ホモイオーシスが用いられた箇所はない。他にピリピ2:6で「御姿」と訳したモルフェーもエイコーンと同義で用いられていると言ってよいだろう。神のかたち、キリストのかたちと関連あるみことばを以下に挙げてみる。イエス・キリストご自身が「神のかたち」であると教えている箇所は次の通りである。

2コリント4:4「彼らの場合は、この世の神が、信じない者たちの思いを暗くし、神のかたち(エイコーン)であるキリストの栄光に関わる福音の光を、輝かせないようにしているのです。」

 

コロサイ1:15、16「御子は、見えない神のかたち(エイコーン)であり、すべての造られたものより先に生まれた方です。なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。」

 

ピリピ2:6「キリストは、神の御姿(モルフェー)であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、」

 父・子・聖霊の聖三位一体の中で、第二位格である御子がなぜ「神のかたち」と呼ばれるかといえば、「見えない神のかたち」と表現されているように、人間には見ることが許されない神を見えるようにしてくださるお方であるからである。へブル書1章の表現でいえば、「御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れ」(ヘブル1:3)ということである。古典的な例えで言えば、太陽本体は見えないが、そこから発せられる光によって、私たちは太陽を見ることができる、そのように私たちは神を見ることができないが、神から生まれた御子によって神を見るということである。

 

 コロサイ書1章15,16節が創造論の文脈であるように、この「神のかたち」である御子をモデルとして、人間は創造された。御子はまず創造論的な意味で神と人との仲介者なのである。そうであるからこそ、御子は救済において神と人との仲介者の役割を果たされたのである。だから、「人は神のかたちとして造られた」という表現は間違ってはないが、御子の仲介者性を含めて表現すれば「人は神のかたちのかたち」なのである。

 そういう意味で、創世記1章26節は、新改訳2017「さあ、人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう。」ではなく、「人をわれわれのかたちにおいて、われわれの似姿に造ろう。」と訳したほうが適切であろう。用いられているヘブル語前置詞は「べ」である。「べ」は普通「において」と訳される。実際、英訳聖書のほとんどはin the image of Godと訳している。ちなみに、ギリシャ語七十人訳は、「人をわれわれのかたちにしたがって(カタ)」と訳している。同様に創世記1章27節も「神は人をご自身のかたちにおいて創造された。神のかたちにおいて人を創造し、男と女に彼らを創造された。」のほうが適切であろう。

 

(2)私たちは本来「御子のかたち」なので、御子を目指して生きるところに自由がある

 

 次に、新約聖書では聖化にかんする文脈において、私たちは主イエス・キリストと同じかたちに変えられていくのだと述べられている。もともと人間は、「神のかたちのかたち」すなわち「御子のかたち」として造られ、その完成を目指して創造されたものであるから、その完成に向かっていくことは人間としての本来性に適ったことである。非本来的なことに向かわせられることは、魚に走れと言われるように不自由この上ないのだが、我々がキリストに倣うことは本来性に適っているのだから、聖化の道には自由がある。魚にとって泳ぐことが自由であり、空を飛ぶことが鳥にとって自由であるように。 

ローマ8:29「神は、あらかじめ知っている人たちを、御子のかたち(エイコーン)と同じ姿にあらかじめ定められたのです。それは、多くの兄弟たちの中で御子が長子となるためです。」

 

2コリント3:17,18「主は御霊です。そして、主の御霊がおられるところには自由があります。私たちはみな、覆いを取り除かれた顔に、鏡のように主の栄光を映しつつ、栄光から栄光へと、主と同じかたち(エイコーン)に姿を変えられていきます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 

コロサイ3:10「新しい人を着たのです。新しい人は、それを造られた方のかたち(エイコーン)にしたがって新しくされ続け、真の知識に至ります。」