N.T.ライトは、新約聖書とほぼ同時代のユダヤ教文献から、
1.イエスの時代のユダヤ人たちが「罪」として意識したことは、個人としての罪ではなく、神がイスラエルの民を背信のゆえにバビロン捕囚に遭わせ、その後も民族の主権は回復していないことであったと主張する。
2.したがって、その時代にユダヤ教の教師であったパウロが書簡の中でいう「罪」とは上記の意味の神に対する民族的罪であるとし、義認とはイスラエルを、神の契約に対する真実のゆえに、その民として認めてくださることを意味すると主張する。

 福音書、使徒の働きに登場するユダヤ人たちが、ローマ帝国の支配下に置かれている自分たちは、神の懲罰の下に置かれているのだと意識していたことは事実である。老シメオンは「イスラエルの慰められることを待ち望み」(ルカ2:25)、老アンナは「エルサレムの贖いを待ち望んで」(ルカ2:38)いたとあるし、イエスを王として担ぎ出そうとする民衆もイスラエルの民族的・国家的回復を待望していたし(ヨハネ6:15)、イエスの弟子たちもイエスが王となりイスラエル王国が復興することを待望していた(マルコ10:37、使徒1:6)。彼らが、イスラエル民族が神の懲罰の下にあるという意識を持っていたのは、申命記、士師記をはじめとして、イスラエルが背信的行為に走るなら、神は異邦人によってイスラエルに懲罰を与えるという思想と実例が書かれているから当然のことである。

 また、パウロがローマ書9章から11章において扱っている問題も、イスラエルの背信とそこからの民族的回復についてである。だから、ライトがほぼ同時代のユダヤ教文献から、その時代のユダヤ人たちの罪観の一面について述べたことはあながち的外れとは言えない。だがパウロがイスラエルの国家的・民族的復興イコール義認だとはっきり教えている聖書箇所があるだろうか。

 ライトの問題点は、彼が目にした古代ユダヤ教文書との類似性の観点だけから新約聖書を見ようとする点である。福音書に登場するユダヤ人たちの罪意識は、そのような民族的・国家的なものだけであったというライトの主張は、まったく事実に反している。

 バプテスマのヨハネが悔い改めを呼び掛けたとき、胸を刺されて彼の前に出てきた人々は、それぞれ自分の個人的罪を意識していたし、ヨハネは彼らに民族としてでなく、一人一人に、神の前に悔い改めることを求めた(ルカ3:11-14)。カペナウムの宣教が始まって間もなく、主イエスが「友よ。あなたの罪は赦された。」(ルカ5:20)と宣告した相手は、イスラエル民族でなく、一人の中風の男だった。主イエスがたとえ話に持ち出した一人の取税人は、宮にやって来ると、目を天に向けようともせず、胸をたたいて「こんな罪人の私を憐れんでください。」(ルカ18:13)と言った。彼はイスラエル民族の罪でなく己の罪を神の前に嘆いている。福音書に登場する罪に苦しむ人々は、ライトがいうようにイスラエル民族の国家としての罪ではなく、個人としての神の前の罪に苦しんでいる。

 パウロにしても同様で、ローマ書でいえば1章18-32節で挙げられるもろもろの罪は偶像礼拝、同性間性交、不義、悪、むさぼり、悪意、殺意、争い、悪だくみ、陰口、そしり、神を憎む、人を人と思わぬ、高ぶること、大言壮語すること、悪事をたくらむこと、親に逆らうこと・・・・というふうに、異邦人たちの犯すさまざまの個人的罪である。2章に入ると神の民を自認し異邦人を軽蔑しながら、陰で同じように盗み、姦淫など諸々の個人的罪を犯しているユダヤ人一人一人の欺瞞、偽善の罪を指摘している。そうして、パウロは異邦人もユダヤ人も併せて「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ3:10)と断じるのである。そうした個々人の罪からの贖いのために、イエス・キリストが宥めのささげ物として公に示され、それを根拠として個々人の罪が償われ、義と認められたのである(ローマ3:24,25)。パウロも主イエスと同様に、ローマ書1—8章では個人としての神の前での罪と、その赦し・義認について述べている。

 また、主イエスはイスラエルの民族的国家的復興を望んでイエスを担ぎ出そうとする人々からは、身を避けたり(ヨハネ6:15)、相手が弟子の場合は戒めたりなさっている(マルコ10:38-40)。主イエスの昇天直前にも弟子の一人がイスラエル国家の再興はいつですかと問うと、主イエスは、それは父の御心にあることだととして取り合わない(使徒1:6,7)。つまり、イエスの同時代のユダヤ人たちは民族として神の懲罰の下にあるという意識を持ち、そこからの贖いを求めていたが、主イエスはイスラエルの民族・国家的回復については天父に委ねるべきことであるとなさり、一人一人が神の前に罪を悔い改めてイエスを信じることを求め、赦しを宣告なさったのである。

 このように、聖書各巻を読むにあたって、同時代の文書の中に、聖書の当該の巻に用いられているのと類似した概念や用語があったとしても、それでその同時代文書におけるその概念の意味で聖書が読み解けると考えるのは軽率である。もし同時代文献との類似が見つかったなら、注意深く聖書のそれとどこがどう違うのかを読み取ることが肝心である。表面的類似性にとらわれず、本質的相違に着目すること。そうしてこそ、そこに神からのメッセージを読み取る手がかりを得られるだろう。ライトがいうように同時代人たちに民族の罪として意識が強かったのだとするならば、イエスが扱い、パウロが扱った罪は個人としての神の前の罪であったことにこそ、私たちが注目すべきイエスとパウロの特徴がある。