自家製教理問答を推敲していて、説教の定義について考えています。 そんな作業の中で、K.バルトとその追随者がしばしば「第二スイス信条」から引っ張ってくる有名な「神のことばの説教は神のことばである(Praedicatio verbi Dei est verbum Dei.)」という命題を調べてみて、ちょっと驚いたことがあります。
 説教塾の加藤常昭師は、この命題に基づいて、次のように重大なことを主張します。
 「『神の言葉の説教は神の言葉である』。前者の『神の言葉』は聖書を意味します。後者の『神の言葉』は今ここで聴く神の言葉です。大切なことは、聖書の言葉がそのまま神の言葉であるとは言っていないということです。聖書を説く説教があって初めて聖書が神の言葉となる、ということです。」(加藤常昭説教黙想集成1解説)

 アンダーラインの部分に注目です。聖書のことばそのままは神のことばでなく、説教になったときはじめて神のことばになる、というのです。いかにもバルティアンですね。
 しかし、大きな疑問があります。そんな20世紀のバルトみたいなことをカルヴァン死後2年の1566年に公刊された「第二スイス信条」にブリンガーが考えて書いただろうか、という疑問です。実際に、第二スイス信条を開いてみると、「神のことばの説教は神のことばである」という命題は存在しません。その底本であるPhilip Schaff,Creeds Of Christendum,Vo2にもありません。ただ第一条第四項に次のようにあるだけです。新教出版社『信条集後篇』の翻訳で引用しておきます。

「四 今日、神の言が、教会において、正しく任命された説教者によって語られる時、神の言が宣べ伝えられ、信者に受け入れられることを信じ、他の神の言を捏造したり、天より期待してはならないと、われわれは信ずるのである。また現在宣べ伝えられている神の言を決して教師が語る言葉と考えてはならない。たとえ彼らが悪人であり罪人であっても、また正しい善人であっても、決して神の言を所有していないのである。」

 見ての通り、第四項の趣旨は、①正しく任命された説教者によって教会で神のことばが語られる時、神のことばが宣べ伝えられ、信徒に受け入れられるのだから、インチキ説教者が聖書以外から語る「別の神のことば」に耳傾けるな。②神の言葉は、それ自体神のことばであって、それを語る説教者の品性に左右されないという聖礼典の「事効説」的主張です。つまり、第二スイス信条第四項は「聖書そのままでは神のことばでなく、聖書を説教する時に神のことばになる」などと述べているわけではありません。

 では、「神のことばの説教は神のことばである(Praedicatio verbi Dei est verbum Dei.)」は誰が付け加えたのでしょうか。邦訳としては『宗教改革著作集』(第14巻、教文館、1994)(渡辺信夫訳)には、括弧付きで、「(神の言葉の説教が神の言葉である) したがって、今日神の言葉が、教会において・・・」とあります。その翻訳の底本はW.NieselによるBekenntnisschriften und Kirchenordnungen der nach Gottes Wort reformierten Kircheで、そこには、Praedicatio verbi Dei est verbum Dei.がイタリックスで記されているとのこと。この説明について関川泰寛氏は、著者ブリンガーが内容を分かりやすくするため加えたのだと説明しますが、その根拠はわかりません。仮にその説明が本当だとしても、バルトや彼の追随者がいうように「聖書はそれ自体では神のことばではない」などという意味で書いたことばでないことは確かです。

 ちなみに、バルトにとって聖書は、啓示の出来事に直面した人間たちの証言集です。その人間のことばである聖書が、(聖霊により頼んで説教され、聖霊によって聴かれるとき)神のことばになるとします。バルトはこうした聖書観を改革者ブリンガーが補強してくれると考えたわけです。でも、それは無茶というかご都合主義というかこじつけでしょう。

 しかし、宗教改革の伝統に立ち聖書信仰に立つ教会は、聖書は神の霊感によって記された神のことばであり、説教者は聖霊の照明によって神のことばを読み取り、聴衆もまた聖霊の照明によって神のことばを受け取るのです。私たちは、人間のことばが聖霊によって神のことばになるのではなく、聖霊によって啓示された神のことばが、聖霊によって神のことばであることがわかるようになるのだと信じているのです。もしブリンガーがPraedicatio verbi Dei est verbum Dei.という小見出しを付けたのだとしたら、その意味でつけたに相違ありません。

 

<追記2023年11月12日>
 第二スイス信条第一章の(正典)の第一項で、ブリンガーは「旧約・新約聖書の正典諸文書は、真実の神のことばである。これらの文書は、それ自身によって十分な権威を持つものであって、人間によって改めて保証される必要はない。(後略)」(加藤訳)と書き始めています。それを前提として、第四項で(神の言葉の説教は神の言葉である)と主張しているのです。
 この事実からして、加藤先生が「神の言葉の説教は神の言葉である」について「大切なことは、聖書の言葉がそのまま神の言葉であるとは言っていないということです。聖書を説く説教があって初めて聖書が神の言葉となる、ということです。」と主張するのが誤りであることは明白でしょう。ブリンガーが(神の言葉の説教は神の言葉である)という小見出しによって言わんとしたことは、再述になりますが、その項目内を読めば一目瞭然で、①教会で正規の手続きによって任じられた説教者による聖書の説教は神のことばであり、また、②神のことばは説教者の品性によらず神のことばであるということです。
 つまり、バルトとその追随者が「啓示の出来事の人間的証言集である聖書が、説教されるとき、神のことばになる」というのに対して、第二スイス信条は「真実に神のことばである聖書は、教会が任じた説教者が解き明かすならば、それもまた神の言葉である」と言っているのです。そして、この第二スイス信条の主張は聖書は誤りなき神のことばであると信じる諸教会の信仰の立場にほかなりません。