(同じ趣旨の文章を、「牧師のメモ」にも掲載しました)

 このごろは1世紀のユダヤ教の色眼鏡で新約聖書を読むのが流行しています。それはちょうど汎バビロン主義者たちが、バビロニア神話の色眼鏡をかけて創世記を読んでしまうのと同類と思えます。それは例えば、新共同訳が、創世記1章2節のトーフー・ワ・ボーフーを「混沌」と訳してしまったことに現れています。
 NPPでもジェームズ・ダンの仕事は慎重で信頼できそうだな感じています。しかし、ライトはどうでしょう。彼が明らかに無理な議論をしているのは、パウロが、自らをヒルレル派ガマリエルの弟子だったと明言しているのに、あえてシャンマイ派だとして、その危うい仮説、砂の土台の上に、彼の義認解釈の楼閣を築いている点です。パウロは言いました。「私は、キリキアのタルソで生まれたユダヤ人ですが、この町で育てられ、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しく教育を受け、今日の皆さんと同じように、神に対して熱心な者でした。」(使徒22:3)ライトがパウロをヒルレル派でなくシャンマイ派であるとする理由は、彼の行動が熱心で過激だったからだというのですが、それは論拠としては極めて脆弱です。続いてパウロは、かつてガマリエルの弟子であった自分が今、目の前にいる暴徒化している人々と同じように、神への熱心ゆえにキリスト教徒迫害をしていたと述べているからです。「そしてこの道を迫害し、男でも女でも縛って牢に入れ、死にまでも至らせました。」(使徒22:4)ヒルレル派であっても神への熱心のゆえに暴力的行動に出ることはあったのです。実際には、ライトは自分の構想ーーバビロン捕囚は終わっておらず、歴史の終わりに神が民を義としたまうことが義認の意味であるという構想ーーが先にあって、無理やりパウロがかつてシャンマイ派だったと主張しているにすぎないように見えます。
 神は、確かに、真空の中にでなく、ある時代文化の中にいる人を用いて啓示をお与えになるので、聖書の記述に時代文化との類似があることは当然です。けれども、聖書が単なる時代文化の産物だと前提しているリベラルな神学者は別として、聖書が神が啓示したことばであると信じる読者は、時代文化との類似以上に、むしろ時代文化との相違点にこそ目をとめるべきです。・・・このことを私は昔、渡辺公平先生の「宗教と歴史の解釈者:実存主義的神学の方法論を前にして」という論文から教わりました。宮村先生が最重要論文だと紹介してくださったものです。