昨年、ローマ書の連続説教をしたり、サンダースやライトの著書にふれたり、契約神学を勉強しなおしたりしているうちに、ある日、ローマ書がいう救いの二側面が見えてきました。

 それは、1章から5章11節までは、キリストによる代理の刑罰を根拠とした法的な意味での救いの表現であり、5章12節から8章は、罪(悪魔)の力からキリストの支配の下に移され、新しい御霊によってキリストに結ばれて、父なる神の前に生きるという生命的な意味での救いの表現であるということです。

 この救いの二側面は、創世記3章に二通りで表現された福音と対応しています。ひとつは主が動物の血を流して恥を覆う皮衣を用意してくださったことに予表されたキリストの代償的贖罪の約束であり(3章21節)、もうひとつは女の子孫キリストが悪魔に勝利するという約束です(3章15節)。

 大雑把な言い方をすれば、西方教会は1章から5章11節までを理解することに長けていて、東方教会はむしろ5章12節から8章末までを理解することに長けています。それは西方世界は法的思考に長けていたからで、東方世界は存在論的思考に長けていたからでしょう。
 サンダースは、5章12節から8章がパウロ神学の核心部だと強調して、そこから1章から5章11節までも無理やり解釈して、読み間違えたのだというのが、私の理解です。

 

*詳細はこちらをごらんくださいhttps://docs.wixstatic.com/ugd/2a2fcb_283cdfe78d5f4198ba502e9f3b3551be.pdf

 

ローマ書1-8章 救いの教理

 

1.人間の罪(ローマ1183:20

(1)異邦人のあからさまな罪(11832

異邦人は偶像崇拝をし、対人関係のあからさまな罪を犯している。いわば、ルカ15章の放蕩な弟息子的罪。

(2)ユダヤ人の偽善的罪(2138)

 ユダヤ人は、人を裁きながら自らも同じ罪を犯す偽善に陥っている。ルカ15章でいえばきまじめな兄息子的な罪。

(3)義人はいない一人もいない3920

 結局、すべての人は神の前に罪人であり、律法の行いによっては誰も神の前に義と認められない

 

 キリストの刑罰代理を根拠とする信仰義認(ローマ3215:11

(1)キリストの刑罰代理を根拠とした信仰義認・・・3:2131

 神は、キリストの血による宥めのささげ物(ヒラステーリオン)を根拠として、キリストを信じる罪人を義と宣言し、かつ、神ご自身の義を明らかにした。
 ここには、神ご自身の神義論(テオディセ)がある。犯された罪を見逃しっぱなしでは、神は義と言えない。だが、神は罪人たちの罪に対する怒りを宥めるために、代償としてこれ以上高価なもののない御子の宥めのささげものを要求されたことによって、神が義であることを証明した。同時に、キリストを信じる罪人を義と認めた。

 

*「キリストの真実」か「キリストを信じる信仰」か?

ローマ3:22

・新改訳2017

「すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。」

・聖書協会共同訳

神の義は、イエス・キリストの真実を通して、信じる者すべてに現されたのです。そこに差別はありません。」

 pistis Iesou Christouは英語にそのまま訳せば、faith of Jesus Christとなる。文法的にいえば、この属格は「イエス・キリストの真実(信仰)」と主格的属格とも、「イエス・キリストを信じる信仰」と対格的属格とも訳しうる。love of Godは「神の愛」とも「神を愛する愛」とも訳せるのと同じ。いずれが正しい訳語であるかを決定するのは、文脈である。聖書翻訳においてはローマ書3章22節pistis iesou christouは、長年「イエス・キリストを信じる信仰」と訳されてきた。

 ところが、カール・バルトは『ロマ書』で「キリストにおける神の真実」と訳した。19世紀の自由主義神学は、人間が愛の人イエスを模範としていわば「下から上へ」向かって行けば神の国は到来すると教えたが、その無力を痛感したバルトは、神は絶対他者であり、救いは「上から下へ垂直に」到来するのだと主張した。その神学が、「人がキリストを信じる信仰」でなく、「キリストにおける神の真実」という訳語を産んだ。だが、これは信じなくてもキリストのゆえに義と認められるというバルトの万人救済論が背後に隠れている翻訳でもある。

 その影響であろうか、近年、E.P.サンダースによってローマ書3:22「ピスティス・イエスー・クリストゥ」について「イエス・キリストの真実によって」という訳語が提案され、他にも同調者が現れた。新改訳2017は脚注にこれを入れ、聖書協会共同訳は、脚注でなく本文に、この説を採用した。「イエス・キリストを信じる信仰」と「イエス・キリストの真実」と、どちらが正しい訳語だろうか?

 伝統説「イエス・キリストを信じる信仰」という訳語はキリストの血による宥めのささげものを義認の根拠としつつも、義認を受け取る手段としての信仰の重要性も表現している。他方、新説「キリストの真実」という訳語では義認におけるキリストの重要性のみが強調されて、信仰の重要性は軽んじられることになる。

 

①パウロはガラテヤ書の類似の文脈で、pistis christouを「キリストを信じる信仰」の意味で用いている。

・ガラテヤ2:16「 しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって(dia piteos Christou Iesou)義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました(episteusamen つまりpisteuoの過去形)。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって(dia pisteos christou)義と認められるためです。」

  ここには、2回dia pisteos Christouが出てくる。ところが、同じ節の中で動詞形piteuoの過去形があって、これは当然「信じた」と訳される。だから、前後のpistis Christouもまた、「キリストの真実」とは訳すことは不可能である。つまり、パウロはここで義と認められるためには、律法の行いでなくキリストを信じる信仰が重要だと述べている。

 

②ローマ書3章22節から4章に展開する文脈上から、「pistis christou」を「キリストの真実」と訳すことは不可能である。

 確かに、文脈から切り離してローマ3章22節だけ日本語で見れば、「神の義は、イエス・キリストの真実(ピスティス)を通して、信じる者すべてに現されたのです。」という思想自体はまちがいではない。しかし、ここをそのように読むのは、ギリシャ語本文と文脈からして無理である。

 そもそも、当該の3章22節の中においてさえ「eis pantas pisteuontas」とあって、こちらは「信じるすべての人に」と訳す以外方法はない。同じ節の中で、名詞形と動詞形の違いはあるにせよ、片方は「真実」と訳し、片方は「信じる」と訳し分けるのは翻訳者の予見が入りすぎである。

 また少し広く文脈を見れば、3章20節から、律法の行ないと信仰と義認についての議論が始まっており、さらに3章27節以降を見れば、「行いの律法(原理)」と対比して「信仰の律法(原理) ノモス ピステオス」と訳されている。これは「真実の律法」ではまるで意味が通らない。28,30,31節においても全てピスティスは「信仰」としか訳しえない。訳しえないので、なんと聖書協会共同訳は、27節の前で文脈を断ち切るために、ここに小見出しを挟み込むという禁じ手をあえて行っている。つまり、小見出しによって文脈を操作して、pistis Christouの訳語を「キリストの真実」としたことに疑義が挟まれないようにしたのである。さらに4章へと進めば、アブラハムとダビデが行いによって義と認められたのでなく、信仰が義と認められたというサンプルとして議論が展開する。ここでもpistisは「信仰」と訳すほかない。つまり3:20節から4章末尾まで、義認に関して、信仰と律法の行いの話題が論じられているわけで、その中でpistis christouということばがあるのだから、これを「キリストを信じる信仰」でなく、「キリストの真実」と訳すのはアウトオブコンテクストなのだ。

 結論。救いにおける神の主権的恩寵、義認の根拠であるキリストの宥めのささげ物はいうまでもなく重要である。しかし、パウロは、ローマ3:21ー4章末尾の文脈においては、神の恵みを受け取る手段としての行いでなく信仰が必要だと説いているのである。したがって、伝統説「キリストを信じる信仰」が正しい翻訳である。文脈を見れば迷うような訳語ではないのだが、翻訳者があらかじめ主張したいことがあって間違えたのであろう。

  結論。救いにおける神の主権的恩寵、義認の根拠であるキリストの宥めのささげ物はいうまでもなく重要である。しかし、パウロは、ローマ3:21ー4章末尾の文脈においては、神の恵みを受け取る手段としての信仰の重要性を説いているのである。したがって、伝統説が正確な翻訳である。


(2)信仰義認のサンプル・・・4

 3章の信仰義認の議論を受けて、行ないによらず信仰によって義認のサンプルとして、ダビデとアブラハムが取り上げる。アブラハムの相続の契約が語られる文脈においては、義認がキリストの死と復活を根拠とすると述べる

 

(3)信仰義認を土台としたキリスト者の人生観・・・5111

・過去:キリスト者は、過去にキリストを信じたとき、義と認められた。これが土台。

・現在:それゆえ現在は神との平和をもっている。現在の艱難も神との平和の中での聖化の過程である。

未来は審判で神の怒りから救われる。(パウロは未来の終末の審判を「義認」とは呼ばない。N.T.ライトが「義認とは世の終わりに、神の契約の民として認定することを意味する」と主張するのは間違い。

 

*コメント

 ローマ書1:185:11は、キリストの代償的贖罪を根拠とした恩寵救済・信仰義認を教えている。創世記3章の、神が用意してくださった皮衣が予型的に表した福音である。

 西方教会は、法的に福音を把握することに長けていて、アンセルムスの満足説と宗教改革者の代償的贖罪説は、このローマ書の511節までを明確に把握したと言える。

 

3.罪(悪魔)の奴隷から義の奴隷・神の子どもへ(ローマ5:128:27

(1)人類の二人の代表・・・51221

 アダムとキリストは人類のふたりの代表である。

 アダムから罪と死が入ってきた。キリストから義といのちが入ってきた。

 

(2)キリストと結ばれて、罪(悪魔)奴隷から解放された・・・ローマ6123

 キリスト者は、代表あるいは王なるキリストに結ばれて「罪」に対しては死んだから、すでに「罪」の奴隷状態から解放された。神に対して生きている(6112)ことを自覚せよ。

 義の奴隷・神の奴隷として、手足を武器として神にささげよ(61323

*パウロ書簡のうち、エペソ書、コロサイ書は悪魔を敵として意識しているパウロの宇宙観と救済観が色濃く出てくる。特にエペソはアルテミス神殿がそびえる悪魔的な影響が如実な町で、パウロは神殿模型屋から弾圧もされた。だが、ローマ書6章、7章もまた、悪魔と悪霊どもの力をパウロが意識していたことを教えていることが、ようやく近年指摘する聖書学者たちが出てきた。これは創世記315節の「女の子孫が蛇の頭を踏み砕く」という原福音の示したことである。

 

(3)罪と死に定める律法の束縛からも解放された・・・ローマ71‐6

 キリスト者は罪からだけでなく、律法からも解放された。律法は死者を罪に定めることはできない。キリストにあって死んだ我々を、律法は罪と死に定めることはできない。

 そして、キリスト者は新しい御霊によって(律法の要求を十二分に満たして)生きるのである(716

 

(4)律法主義的キリスト者は、奴隷的恐怖におののく・・・ローマ7725

 ところが、すでにキリストにあって律法の呪いから解放されたキリスト者でありながら、律法の束縛の下に生活するキリスト者がいる。彼は、律法によってかえって「罪」の力に捕らえられて、苦しむことがある。パウロの場合、その律法とは「あなたの隣人のものを欲しがってはならない」であった。人は、そのとき「罪」の奴隷に戻ってしまったかのような恐怖に陥ることがあるこれはパウロ自身の生々しい経験の告白である。

 

*ある人々は、この生々しい霊肉の葛藤のありさまはキリストを知るまえのパウロの経験を述べているのであるというが、それは読み間違えであろう。パウロは最晩年にも自分は罪人のかしらであると告白する人である。

 ルターはこの箇所から、キリスト者というものは、simul justus et peccator.(義人にして同時に罪人)であるといった。罪人が罪人であるまま、キリストのゆえに義人とされているのだ、と。

 きまじめに熱心に神の律法を一つも間違わずに生きようとするキリスト者は、いつの間にか奴隷的な恐怖、つまり自分の善き業を救いの根拠とするような意識に囚われてしまうことがあるというのが、正しい。 

 

(5)キリスト者は神の子であり、キリストの共同相続人である・・・ローマ724827

 しかし、その時にはもう一度、自分がキリストの宥めを根拠として、義と認められたという原点に立ち返ることである(7:258:3)

 キリスト者は御霊に導かれて、信仰生活を送るのである(8413

 我々は7章で見たような律法の呪いに縛られた奴隷的恐怖に陥らせる霊を受けたのでなく、子としてくださる御霊を受けた。私たちは神の子どもとしてその行い以前に、その存在を父なる神に喜ばれているである。(8:1416)

 そして、神の子どもであるゆえに、相続人キリストともに被造世界の共同相続人として希望に生きる81725また御霊の助けによって生きる(82627

 

(6)神の計画、救いの順序。すべては神から出ている。・・・ 8:2830

  予定・召し・義認・栄光化

 

結び 神の愛による勝利 8:3139

  いかなる被造物もキリストにある神の愛から我々を引き離すことはできない。

 

*そうして、9,10,11章はキリストの共同相続人たる神の民に関して、イスラエルの民と異邦人の計画が語られていくわけである。