贖罪論において、対悪魔勝利説(古典説・劇的説)に対する一般的になされる批判の一つは、神と悪魔の二元論的であるという点である。特に、オリゲネスやエイレナイオスの場合には、神が悪魔に基督という身代金を支払ったとまで言ってしまう。それに対して、アンセルムスは神中心的で一元論な贖罪論を確立した点で優れているとされる。

 だが、聖書には神(キリスト)中心的で一元論的な表現と、神(キリスト)と悪魔の二元論的な表現との両方が出てくる。マタイ福音書28章末尾で、復活のイエスは「わたしには天においても地においてもいっさいの権威が与えられています。」とおっしゃった。また、エペソ書1章20,21節には「この大能の力を神はキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上でご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世だけでなく、次に来る世においても、となえられるすべての名の上に置かれました。」とある。

 だがもう一方でヨハネの手紙第一の5章19節には「私たちは神に属していますが、世全体は悪い者の支配下にあることを、私たちは知っています。」とあり、エペソ書2章1、2節には「さて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。」とある。

 この両面をおさえておくことが大事なことである。悪魔は世を支配しているという面があるが、究極的には実はその悪魔も神の支配のもとにあるということになろう。確かに神がキリストという身代金を悪魔に支払ったというのは聖書的ではない。しかし、贖罪論における対悪魔勝利説は二元論的であるから不可という批判は一面的すぎて、聖書にかなっていない。