終末論09

再臨・復活・審判・新天新地

1.再臨

(1)主イエスはどういうお方として再臨なさるのか? 

まず、ナザレのイエスとして受肉された神の御子イエスご本人が来られることが大事な点である。御使いは言った、「あなたがたを離れて天に挙げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じありさまで、またおいでになります。」(使徒1:11)

イエスはあの日、天に挙げられたときと同じ姿で天から栄光の雲とともに来られる。このことがなぜ大事か?それは再臨のキリスト、あのナザレのイエスとは違う者として来たのだという異端が現れているからである。たとえば、文鮮明は朝鮮半島に通常の出生で来たといい、大川隆法は自分の中にキリストの霊が輪廻してきたことが再臨であるなど好き勝手なことを主張している

 

人の子=天的な王として

「かしこより来たりて生ける者と死にたる者とをさばきたまわん」とあるように、主は審判者として来られる。福音書でもちいられている「人の子」はその意味の権威ある呼び名である。マルコ13:26「そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。」とある背景にあるのは、ダニエルが見た「人の子」の世界の王としての即位の幻である。

7:13 私がまた、夜の幻を見ていると、

   見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、

   年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。

 7:14 この方に、主権と光栄と国が与えられ、

   諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、

   彼に仕えることになった。

   その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、

   その国は滅びることがない。」(ダニエル7:13,14)

 

 「人の子」は主イエスが好んで用いられた称号であるが、その印象からキリストの人間に対する近しさを表現していると誤解する人々がいる。実際には、ここに見るように「人の子」はダニエル書の即位の幻を背景としていて、むしろ天的な王を意味している。

 

●主イエスは、また、しもべたちに報酬を与える主人として来られる(マタイ25:21)。主に忠実に生きたしもべにとって喜ばしい日であるが、そうでない者にとっては恐るべき日である。

 

●主イエスはまた、花嫁である教会を迎える花婿として来られる(マタイ25:1、黙示21:2)。

 主イエスを愛し慕う者にとっては、この上なくうれしい日。

 

(2)主イエスは何度再臨するのか?

 ディスペンセーション主義の艱難前携挙説の支持者の再臨の回数に関する主張はさまざまだが、最少限2回であるとする。艱難の前にキリスト教会を携挙するために空中に秘密で来る再臨が一回目。第二回は選民ユダヤ人のために来るという。

 だが、この教えは事柄をいたずらに複雑にしているのではなかろうか。主イエスの復活と昇天が一回であった、そのように一回である。

 

(3)はいつ再臨するのか

 主イエスは「この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」(マタイ24:35,36)とも、「いつとかどんな時とかいうことは、あなたがたは知らなくてもよいのです。それは、父がご自分の権威をもってお定めになっています。」(使徒1:7)ともおっしゃったから、黙示録やダニエル書の数字に字義通り読むことにこだわって再臨の日を詮索することは無駄であるだけでなく、キリストのことばに背くことである。ダニエルの七十週の第七十週目の「7年」とか「ひと時とふた時と半時」「1260日」「半週」を文字通りに取ることは間違いである。

 聖書が明確に啓示していることは、福音宣教がすべての民族になされ(マタイ24:14)、ユダヤ人と異邦人の中から「選ばれたものの数が満ち」不法の人(滅びの子)」が現れ、大規模な背教が起こるときに(2テサロニケ2:3)、主は再臨されるということだけである。

 主が言われた前兆は、多くの時代に、多くの地域において「再臨の前兆ではないか」と意識されてきた。パウロは、その目の黒いうちに主が再臨するという信仰をもって生活していた。それは産みの苦しみ」のように神の歴史支配ラセン的構造であるので繰り返すのである。

 だから、肝心なことは事細かに再臨の前兆にかんするこまごまとした知識を持ったり、再臨の年月日と詮索することではなく、落ち着いて自分の手をもって働き、日々悔い改めつつ、いつ主が戻って来られても喜び迎えられる生き方をすることである。「明日主が来られるとしても、今日、わたしはリンゴの苗を植える。」というふうに。

「だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。」(マタイ24:44)

 「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。」(1テサロニケ4:11)

 

)主イエスはどこに再臨するのか?

 ゼカリヤ14:3、4によれば、「主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。」

とあることを「字義的に」見れば、主イエスはエルサレムの東のオリーブ山降り立ち、裁きを行なわれると解される。だが、ゼカリヤ書のくだんの箇所は、字義通りに解釈すべきかどうかは疑問である。

というのは、黙示録では最後の審判のとき大きな白い御座に座る主イエスが現れると、「地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。」(黙示20:11)とあり、のあと審判が行われ、黙示録21章に新天新地が出現することを見れば、主が地に降り立ち、そこで裁きをするというのは無理である。だが、黙示録もまた黙示文学形式で記されているから、字義通りに解するのは不適当であり、「地と天も逃げ去る」というのはどういう事態を意味しているのかは、よくわからない。

ともかく、最後の審判確かに行われること聖書は明言している。しかし、その審判が地上であるいは、地も逃げ去ってしまったあと、どこで行われるかについては、明言していないというのが事実である

 

)「来る」のか「行く」のか?・・・erkomai

 マタイ「24:30 そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」

この箇所の翻訳について、雲に乗って人間のところに「来る」のではなく、父なる神のもとに「行く」のであるという議論がある(N.T.ライト)。用いられている動詞erkomaiは「来る」とも「行く」ともどちらにも訳しうる。背景はダニエル書7章。

7:13 「私がまた、夜の幻を見ていると、

   見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ

   年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。」

 キリストが王としての即位のために、父のもとに来るという意味ではないかという指摘である。再臨はあることを前提として、キリストが王としての即位のために、父の前に「来る」と訳しても、さして大きな問題ではない。

 

2.復活

(1)義人も悪人も復活する

ヨハネ5:29 「善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。」

使徒24:15 「また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。」

 

(2)義人は御霊に属するからだによみがえる。それは御霊に属するからだであるが、単なる霊ではなく、確かに「からだ」である。

1コリント「15:44 血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。15:52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。」

ただし、悪人のからだのよみがえりにおけるからだがどういうものであるかについて、聖書はここに書かれた以上のことを教えていない。

 

3.御子は世界の聖徒を集める私たちは出迎える

 

 マルコ13:27 「そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。」

2テサロニケ4:15-17

 4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。

 4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

 4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うの(eis apantesin)です。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」

 

使徒28:15

「私たちのことを聞いた兄弟たちは、ローマからアピオ・ポロとトレス・タベルネまで出迎えに来てくれた(elthen eis apantesin)」

 

 これは千年王国前再臨説論者で、艱難の前に主が空中に来られて艱難から「教会」を救ってくださるという説の人々が「携挙」と呼ぶところの記事である。「いつまでも主とともにいる」のは事実なのだが、空中において主とともにいるのではないようである。空中で主とお目にかかったあと、新たにされた地に降ってくるのである。G.E.ラッドが指摘するように、「主会う」2テサロニケ4:17)ことを「出迎える」(使徒28:15)に用いられる語apantesisを用いていることはそれを示していると考えられるローマの兄弟姉妹たちが使徒パウロを出迎えて一緒にローマに帰ってきたように、聖徒たちは空中に出迎えに行って、その後、地に降りてくると解される

 N.T.ライトも、ラッドと同じく、ディスペンセーショナリズムの携挙に反対して、このことをことさらに強調する。ディスペンセーション主義者のある極端な人々は、携挙に希望を置くあまり、この世に対して無責任だという。ハル・リンゼイの『今は亡き大いなる地球』に代表されるような、大患難の前に聖徒は携挙され地球は滅びてしまうのだから、クリスチャンはこの世に責任を感じる必要などないという人々のことである。そこでライトは、地は戻ってくる場所であることを強調した。今の世と次の世の連続性を強調する。

 ライトの考えは半分正しいが、半分言い過ぎである。正しい面は、聖徒たちは再臨の主を出迎えに来て再び地に降りてくるという点である。これは、黙示録21章冒頭に書かれている。

21:1 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 21:2 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。」

 ライトの考えが半分言い過ぎなのは、もどって来る地が現在の地と連続していることのみを強調していることである。黙示録20:11-21:2の流れを読めば、白い御座と主イエスが出現したとき、「地も天も逃げ去って、あとかたもなくなった。」(20:11)とあり、次いで審判があり(20:12-15)、新しい天と新しい地が出現するのである(21:1,2)。まず旧天旧地はあとかたもなくなって、新しい天と新しい地が到来することについては、2ペテロ3:10-13にもある。

3:10 しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。 3:11 このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。 3:12 そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。 3:13 しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」

  我々は、旧天旧地と新天新地との間に連続性と非連続性の両方を見なければならない。それは、キリストの十字架にかかられたからだと復活のからだの連続性と非連続性との類比して考えればよい。今の天地と次の天地との間には連続性と非連続性がある。