現代神学06

弁証法神学(2)

ルドルフ・ブルトマンRudolf Karl Bultmann1884-1976

1.様式史について

 『共観福音書伝承史』(1921)、『共観福音書の研究』(1929)(後者は前者の要約版ともいえるもの)・・・我々は史的イエスを知りえない。

 

 ブルトマンはルター派の牧師であり、自由主義神学の系譜にある。自由主義神学は「史的イエス」の資料として福音書に関心をもってきた。彼は共観福音書が歴史的価値ある資料であること疑い、すでに旧約学でH・グンケルが用いていた様式史批評をもちいて、共観福音書は複数の多様な伝承素材から成るものとして分析した。そうして、各資料で伝えられてきた「生活の座(Sitz im Leben)イエスの死後発展した紀元100年ころまでの原始キリスト教会における信仰と祭儀にあるという説を立てた「生活の座」という用語もグンケルが始めた概念。

 「様式史とは簡単に言えば、福音書の内容の年代的な配列が歴史的な事実ではないというところから、福音書の記録を個々の断片に解体し、それらがどのような主題で形成されたものであるかをさぐり、次にその主題を手がかりとしてその小断片を様式別に分類し、その様式の層を分ける。このようにして、伝承の最古の姿を明らかにしようとする。その主題を支配したのは原始教会であり、教会の生活と歴史の中に特定の位置(Sits im Leben生活の座)を持っている」(ブルトマン『イエス』(未来社1963)の川端純四郎によるあとがきp234.)という仮説である。

 結論として、ブルトマン「われわれはもはや、イエスのメシヤ意識の成立と発展に関して、何ひとつ確かなことを語ることができない。イエスは、みずから自分をメシヤとみなしていたのか、あるいは教団の信仰によって、はじめてメシヤとされたのかという疑問は、そのまま残されねばならない。」(ブルトマン「共観福音書の研究」(『聖書と伝承と様式―キリスト教の起源―』未来社1967p80)と述べ、福音書から「史的イエス」そのものの実際の姿を再現することは歴史学的には不可能であり我々が新約聖書に読むことができるのはイエスをキリストとして伝えるケーリュグマと結論したつまり、ブルトマンの言葉で言えば「告知されるキリストは、もはや史的イエスではなく、信仰と祭儀のキリストである。」(『共観福音書伝承史』p396)

  C.F.ヴィスロフのことばでまとめれば、共観福音書におけるイエスの歴史性を、原始教団の信仰とは区別することができない。歴史的な「イエス伝」を福音書に求めようとしても、むだである。原始教団は、イエスを信じる群として、彼を 「神の子」「メシヤ」などと呼び、復活と昇天を加えた。ブルトマンによれば、これらのことが、 現実におこったか否かは、知りえないのである。またそれを知ろうとすることも重要ではないのである。重要なのは、原始教団のケリュグマ(宣教)なのである。>(『現代キリスト教小史』鍋谷訳)

 

<水草コメント>

 福音書を個々の小断片に解体して行けば福音書を理解できるという考え方は、デカルト的な要素還元主義によっている。また、ブルトマンの福音書の見方の背後には「物自体を知ることはできず、我々が知るのは、我々の感性形式・悟性形式で構成された現象でしかない」というカント認識論の枠適用されているように見える。つまり、「我々はナザレのイエス自体を知ることはできない。我々が知るのは原始教会の生活の座で構成されたイエス像でしかない」ということ。これは筆者の着想による解釈にすぎないが。

 だが、「生活の座」と福音書の解釈についての見方は、毒を抜けば聖書信仰に立つ我々の釈義に活かせる側面があるかもしれぬ。一例を挙げれば、主イエスの十字架を担ったクレネ人シモンという名が「アレクサンデルとルポスとの父」という注釈つきで福音書に残されているのは、二人の息子が初代教会の中で名の知れた聖徒となっていたことを意味することは容易に想像される。最初の福音書の読者たちであった初代教会の兄弟姉妹には、「ああ、アレクサンデルさんのお父さんが、イエス様の十字架を背負ったシモンさんだったの。」とうなずいただろう。初代教会の様子つまり、「生活の座」を思い浮かべつつ福音書を読むことは有益である

もう一例。ゲツセマネの園で主イエスの耳を切り落とした大祭司のしもべについて、「そのしもべの名はマルコスであった。」(ヨハネ18:10)と特筆されていることについても同様の推測が成り立つだろう。その名が特筆されるのは、おそらく初代教会の中に、回心したマルコスがいて、「俺はあのゲツセマネに出かけて行ったとき、えらい剣幕のペテロさんに耳をちょん切られたんだ。痛かったなあ。でも主はすぐに俺の耳に手を当てて癒してくださったんだよ。」と証をしたのであろう。

 

.実存論的解釈について・・・『イエス』・・・神学でなく人間学

 

 『イエス』は様式史に加えて、1921年にブルトマンが加わったバルトの弁証法神学運動の影響、またハイデガーの現存在の実存論的分析の影響を受けている。本書は、新約聖書を実存論的に解釈する方法論を模索しはじめたところの作品である

『イエス』1926では、共観福音書研究の結論を反映して、従来自由主義神学が関心をもってきたイエスの生涯や人となりにはほとんど触れない。

「私はもちろん、私達はイエスの生涯と人となりに就いてほとんど何も知る事が出来ないと考えているからである。」邦訳p12

「私個人としては、イエスは自分をメシアと考えなかったという意見である。しかし、だからと言って私はかれの人となりについてはっきりした像を抱いている、などと思いあがってはいない。・・・むしろこの問題は副次的な事柄だと思う・・・」邦訳p13

 

●ブルトマンの関心は史的イエス自身にまでさかのぼることが可能だと考えたイエスの言葉に焦点をあて、それを現代人に実存的応答を迫る語りかけとして解釈した。だから、ブルトマンはイエスのセリフの多いヨハネ伝を好む。

「その言葉は、私達の実存をどのように把握しようとしているか、という問いとして私達に出会うのである。もちろん、その際私達自身が、私達の実存への問いによって動かされていることが前提になっている。」p15

「その対象は以上からしてイエスの生涯や人となりではなく、その「教説」、その宣教なのである。私達はイエスの生涯や人となりについては少ししか知らない代わりに、彼の宣教に就いては多くを知っていて、一貫した一つの像を構成することができる。」pp15,16

「史料が私達に与えるものは、実際さしあたりは教団の宣教なのである。」p16

 

●ブルトマンはハイデガーの実存哲学の人間観の影響を受け、その枠のなかでイエスの宣教における「神の支配」を捕らえようとする

 「神の支配は全く将来でありながら現在を全面的に規定する力なのである。それは、人間に決断を強制することによって現在を規定する。人間は選ばれた者となるか、棄てられた者となるか、いずれにせよ、神の支配に対する決断によって、実存全体を規定される。」p54

「イエスによると、人間の価値は何か所与の人間的性質或いはその心魂生活の内容によって定まるのではなく、ただ人間がその実存の今・ここにおいてどのように決断するかによってのみ定まるのである。」p57

 

●しかし、ブルトマンは福音書に記されたイエスのことばであっても、彼の考える史的イエスのイメージに調和しないことばは、教団がイエスに語らせたものだと断定してしまう。たとえば「十二弟子には、聖なる民の十二支族の代表者としてメシアのときの王座が約束されている(マタイ1928、ルカ2229,30)。いずれにせよこれはほんとうにイエスが語った言葉ではあるまい。たぶん初代教団がはじめて十二人を選んだのであり、そして上のことばは初代教団の希望を反映しているのである。しかしまさに初代教団が、イエスの宣教はユダヤ民族の枠を越えてはいなかったことを明らかに示すのである。」p46

 ブルトマン思い描く史的イエスにおいて「神の支配も形而上学的あるいは宇宙論的二論の問題設定のもとに理解されてはならない。現在の世界は二元論的厭世観の意味で低く評価されるものではない」はずであるから、「野の百合と空の鳥に関する有名な言葉やその他類似のものが―これらはユダヤ教とオリエント一般の知恵の格言が持つ無邪気な摂理信仰を含んでいる―どこまでイエス自身の語ったものか、もう確定することは不可能である。」p51

「イエスの終末論的告知、神の支配到来の宣教と悔い改めの呼びかけとは、どんな人間把握がその根底になっているかを考えるときにのみ理解されうるのだということである。・・・そうすれば、イエスの宣教が本来意味するものの外的表現である時代史的神話論にまなざしを向けてはいけないということは自然に理解される。この神話論はそこに秘められている偉大な根本理解、人間は神の将来的行為によって決断の中に置かれているのだというイエスの人間理解から結局は逸脱していくのである。時の中に世界の終末が眼前に迫っているという期待も神話論の一部である。」(p58)として世界終末論に関するイエスの教えを否定する。人間は神の将来的行為によって決断の中に置かれている」というのは、実存哲学者M.ハイデガーの教説である。ブルトマンは、ハイデガーの実存哲学という色眼鏡で、イエスの教えを見ている。

 

さらに、「また神の支配に対抗しているサタン、という観念も神話論の一部である。イエスによればただ人間が悪である、すなわちその意思がよこしまである限りでのみ、世界がであるといわれうるのである。」(p58,59)として、イエスが福音書で教えているサタンに関する教説も否定する。

 

この時期のブルトマン論文は、『信仰と理解』第11933に収められた。ブルトマンによれば、歴史というものは客観的に観察をしてはいけない。歴史とは単なる過去の事実ではない。歴史について語っている歴史家自身が、その歴史の一部をなしており、歴史について語ることは、自分自身を語ることになる。歴史に傾聴するならば、それによって自己理解を新しくし、新しい歴史を開くことになる。「歴史家の課題は、過去の歴史の諸現象を人間の実存理解の可能性から解釈し、こうしてそれを現在の我々の実存理解にとっても可能性として自覚させることである。」客観的観察によって確定できる歴史の側面をヒストリーとし、主体的な出会いによって開示されてくる実存理解の語りかけの歴史はゲシヒテとして区別する。

 

 C.F.ヴィスロフはブルトマンの実存論的解釈について次のように解説する。「 実存とは、最も単純に表現すれば、人間の真の存在、本当の存在であるといえよう。人間は、 習慣や秩序によって生きているのであるが、真の人間存在は、そこにはない。真の人間は、生の あらゆる瞬問に決断し、自らの真の存在を確かめねばならない。新約聖書は神話的な人間の実存 の意味を提示している。われわれが、新約聖書から聞きとらねばならぬことがらは、人間の実存 の正しい理解である。
 さて、このようにして行われる新約聖書の再解釈は、どのような結果をもたらすであろうか。 たとえば使徒信条の第二条項によって、これを見てみよう。
 キリストの歴史が神話的な歴史であることは議論の余地がない。「キリストが神の御子であり 先在しておられた。」というのは神話である。もちろん、イエスは、十字架上でその生涯を終え られた。歴史と神話とが、イエス・キリストにおいてつづりあわされているのである。処女降誕 については、事実ではなく、そこで原始教団が何を宣教しようとしたのかが問われればならな い。
 十字架、それはキリスト教の中心主題なのであるが、これも非神話化され、再解釈されねばな らない。十字架への信仰は、われわれがキリストの十字架を自らのものとして受けいれ、自らが キリストと共に十字架につけられることを受けいれることである
 復活もまた、神話的物語である。現実に、イエスが肉体をもって復活したことは信ずることができない。では何が大切なのだろうか。弟子たちの信仰が大切なのである。弟子たちは、十字架 と共に復活を宣教した。原始教団がもった復活への信仰は、今ここで、みことばが宣教されると きにわれわれのものとなる。宣教においてわれわれは現実に復活のキリストにお会いするのであ る。

 

<水草コメント> ブルトマンの実存論的聖書解釈において、イエス・キリストの歴史性は否定される。彼の実存論的解釈は、神学でなくむしろ人間学になっている。

 

3.非神話化・・・『新約聖書と神話論』『ヨハネ福音書註解』『新約聖書神学』

 

  1941年、新約聖書の非神話化:Entmythologisierung、英:Demythologyに関する提案を発表(「新約聖書と神話論」)。新約聖書の叙述が前提にしているのは、グノーシス主義的な神話の世界像であると主張する。それはもはや現代人には受け入れることができないとして、これを排除する。そして、新約聖書の中核にあるケリュグマを実存論的に解釈することで現代人に理解可能な語りかけとして取り出す聖書解釈の方法論を提案した。

 同時に実際にこの方法論を用いた『ヨハネ福音書註解』1941年)を出版し、さらに後年、新約研究の総決算として『新約聖書神学』1948-53を出版。

C.F.ヴィスロフは『現代神学入門』でブルトマンの主張を次のように要約している新約聖書は、現代人とは全く異る、神話的な思考方法をもっていた。新約聖書が世界を三層に みていること、すなわち、天と地と地獄の分け方をわれわれはそのまま受けいれることができる だろうか。
 悪魔や天使の存在は、まことに神話的な表現である。奇跡についても、これを歴史的なできご ととはみなしえない。現代の進歩した世界において、これらのことをそのまま受けいれる必要は ない。
 イエス・キリストについてはどうか。処女降誕は、彼を崇拝する者のつくった、神話的物語で ある。このようにして、十字架も復活も、終末も、非神話化されなければならない。  現代人に宣教するために、新約聖書の神話的な表現の奥にある真理を、見出さなければならな い。

 

<水草コメント> キリストの歴史、十字架、復活これは「神話」であることは議論の余地がないとブルトマンが断言するのはなぜか?それは、彼が無自覚にカント以来の二元論的認識論・理神論ないし自然主義の世界観の中でものを見ているからである。それは、現象界はそれ自体の法則によって運営されており、そこに超自然の作用が介入するはずはないゆえ、奇跡も啓示もありえないという世界観である。カトリック作家遠藤周作はブルトマンの影響を色濃く受けている。

 

まとめ.

 ブルトマンの様式批評の方法は、デカルトの要素還元主義を背景としている。すなわち、対象をより細かく分析して行けば、その本質に迫ることができるという考え方である。

 ブルトマンの共観福音書によっては史的イエスを知ることはできず、そこには原始教団の宣教したイエス像を見ることができるだけであるという考え方の枠組みは、カントの「物自体」を知ることはできず、知りうるのは感性形式と悟性形式で構成されたことのみであるという枠組みを背景としているように見える。ブルトマンの非神話化において、キリストの受肉・十字架の贖罪・復活などなどを神話であると断じるのは、自然主義・理神論的世界観のゆえである。

 ブルトマンの実存論的聖書解釈は、ハイデガーの実存論哲学を用いたものであり、彼の聖書学はもはや神学ではなく、人間学にすぎない。

 ブルトマンの出発点は、聖書ではなく、デカルトの要素還元主義、理神論的世界観を背景にしたカントの認識論、ハイデガーの実存論哲学といった哲学なのである。