(1)バルトの神学の概要

 第一次大戦による楽観主義の崩壊という時代の激変とともに、イエスを道徳の模範として、人間は地上に神の国を来たらせることができるとした楽観的自由主義神学は没落する。その没落を告げ、キェルケゴールの思想を手がかりとして新しい神学の道を開いた神学者がカール・バルトKarth Barth(1886-1968)であった。バルト以降を現代神学と呼ぶ。バルトのほかE.ブルンナー、R.ブルトマン、ラインホルト・ニーバー、パウル・ティリッヒ、D.ボンヘッファーたちが一般に危機神学、実存主義神学、新正統主義神学などと呼ばれる神学を展開した人々である。

 バルトの著作は膨大にして難解であり、初期のものと後期のものとに変化も生じているから容易にまとめることなど不可能であるが、その神学のいくつかのポイントを挙げておくことにする

 

①文化的キリスト教(自由主義神学)からの転向

バルトは、スイスのバーゼルで生まれ、ベルンで子供時代を過ごした。ベルン、ベルリン、テュービンゲン、マールブルクの各大学で学んだ。当時バルトはシュライエルマッハー、アルブレヒト・リッチュル、ハルナック、トレルチの自由主義神学を信奉していた。しかし、1910年にジュネーヴで改革派教会副伝道師となり、1911年から1921年まで、アールガウ州ザーフェンヴィル村の改革派教会で、神学的自由主義者・実践的社会主義者として牧師を務め説教者として生きるなかで、自由主義神学の限界に突き当たった。

1914年第一次世界大戦が勃発したとき、彼の神学における恩師たちが戦争政策を公然と支持したのである。「私個人にとっては、その年の8月初めのある日が不吉の日として心に刻みつけられた。すなわち、その日に、93人のドイツの知識人たちが、皇帝ヴィルヘルム二世とその助言者たちの戦争政策に対する支持表明を世に問うたのであった。しかも、驚いたことに、それらの人々の中に、私はそれまで信頼をもって尊敬していたほとんどすべての神学教師たちの名前を確認しなければならなかった。私は彼らのエートス(道徳)を信じられなくなって、彼らの倫理学にも教義学にも、彼らの聖書講解にも歴史叙述にも、もはやついてゆくことができないということ――そして、十九世紀の神学は少なくとも自分にとってはもはや何の未来も持っていないことに、気づいた」。また、彼が戦争イデオロギーに加担することはあるまいと思っていた社会主義者たち、社会民主党も反戦の立場を放棄して戦争支持に転じていった。

超越した神に根差すことなく、聖書を文化に解消してしまう文化的キリスト教の信奉者たちは、自らの属する文化が愛国主義の激流に飲まれると、いっしょに流されていった。バルト自身が、そうした流れに異様さを感じえたのは、彼がドイツ人でなくスイス人であったということは理由の一つであろうが、それ以上に、彼が超越者である神に捉えられていたからであろう。

 こうした困惑のなか、バルトはブルームハルト親子の信仰に目を向けた。父ハンス・クリストフ・ブルームハルト、子ヨハン・クリストフ・ブルームハルトはドイツ・ルーテル派の牧師であった。1842年、若い女性から悪霊を追い出した事件から、リバイバルが起こり、超自然的癒しも行われた。その悪霊追放のとき、「イエスは勝利者である」との叫びと共に悪霊が少女から出て行き、神癒を求めて多くの人がブルームハルトのもとに集まった。牧会的、神学的な大きな運動を引き起こしていブルームハルト父子に接したとき、バルトにとって聖書的でリアルで超越的な神の国が切実なものとして迫ってきて、聖書が活ける神のことばとして聞こえてきたのである。

バルトは聖書を活ける神のことばとして語るために、聖書の注釈と神学を抜本的に革新することが必要であると考え、自由主義神学はもはや神学ではなく人間学に解消していると批判し、これと訣別した。そして、「言における神の啓示」(『新約聖書』「ヨハネによる福音書」冒頭)を主張した。『ロマ書』第一版はその神学的転向の決定的な書である。バルトはその序文において、従来の聖書を単なる歴史的文化的所産とみなす歴史批評的読み方に対して別れを告げる。

「パウロはその時代の子としてその時代の人々に語りかけた。しかしこの事実よりはるかに重要なもう一つ別の事実は、彼が神の国の預言者また使徒として、すべての時代のすべての人たちに語り掛けていることである。」(序文)

第一版序文で、さらにバルトは、自由主義神学における「聖書の歴史批評的研究法は、それなりに正当で必要である。むしろ聖書の理解のために、欠くことのできない準備段階を示している。だが、もしわたしがこの方法と、古めかしい霊感説とのどちらかを選ばなければならないとすれば、わたしは断然後者を取るだろう。」と言う。だが、彼の師にあたる自由主義神学のハルナックは、バルトの『ローマ書』を非学問的なものとして非難する。

  時間(歴史・文化)の中に永遠(啓示)を解消してしまう自由主義キリスト教の聖書の読み方に対して、時と永遠の質的な違いを明らかにする方式を、バルトはキェルケゴールに学んだ。彼は、『ローマ書』第二版序文において次のように言っている。「もしわたしが『体系』をもっているとすれば、それは、キェルケゴールが時と永遠の『無限の質的差異』と言ったことを、わたしがその否定的、肯定的意味においてできるだけしっかりと見つめることにおいてである。」時をどんなに延長しても永遠にはなりえない。時と永遠とは質的に異なっている。聖書が、文化・歴史の中で書かれたものであるとしても、神の啓示は文化・歴史の中に解消されはしない。永遠は時と質的に異なるのである。

 これは言語霊感説に立つわれわれの聖書解釈において非常に重要な指摘である。神は、歴史・文化の中の記者と彼のことばをもちいて霊感をお与えになって聖書を成立させた。したがって、聖書は歴史や文化と関係性をもっているが、これらとは質的に異なる啓示(メッセージ)にこそ注目しなければ聖書を読んだことにはならない。同時代のヘレニズムの中に、あるいは、同時代のユダヤ教にパウロを通して語られた神の啓示を解消してしまおうとする聖書学者たちは、この点で過ちを犯している。

 

 神の啓示は垂直に上から下へ、というバルトの表現は、文化的キリスト教・人間主義的神学との訣別を意味する。また、バルトがトマスの「存在の類比」を批判した「自然神学」批判も同じ文脈である。「神が絶対他者である」という表現も同じ文脈で語られる。

 そのもっとも先鋭化した神学論争は、盟友エミール・ブルンナーとの自然神学論争における『ナイン!(否!)』である。ブルンナーが、人間には「神の像」が形式的であれ残っているとしたのに対して、バルトは「人間にはもはや『神の像』はない」と主張した。一切の下から上への道を否定したのである。 現代から客観的に見て、聖書釈義的には、バルトの主張には無理がある。だが、彼の主張には、ナチスに組する「ドイツ的キリスト者運動」という歴史的背景があることを考慮しなければならない。ドイツ的キリスト者たちはヒトラーの出現、ナチスの台頭は歴史における神の啓示であると主張した。歴史の中に神の啓示を見る一種の自然神学の主張である。当時の状況において自然神学を容認することは、ナチズムを肯定することを意味した。そこで、バルトは、自然神学を徹底的に排撃したのである。

 彼が客観的釈義からすれば否定しえない自然神学を、あえて徹底的に排撃したのは、神学のことばは、真空の中に客観的に語られるべきものではなく、具体的な歴史状況に置かれた人間と世界に向かって語られるべきものであると彼が信じ決断したからであろう。後年になって、彼の主張に変化が生じていることについて批判する向きがある。だが、それはバルトの神学のブレというより、このような神のことばにかんする認識ゆえであると考えられる。

 

②バルト『知解を求める信仰―アンセルムスの神の存在証明―』

 バルトの神学的転換点となるのが、カンタベリーのアンセルムス『プロスロギオン』の研究だった。本書は第二章における神の本体論的証明が有名であり、アンセルムスは代表的なスコラ神学者である。彼の本体論的証明は、おおよそ次のようなものである。

①神はそれ以上大いなるものがないような存在である。 ②一般に、何かが人間の理解の内にあるだけではなく、実際に存在する方が、より大きいと言える。 ③もしもそのような存在が人間の理解の内にあるだけで、実際に存在しないのであれば、それは「それ以上大きなものがない」という定義に反する。 ④ゆえに、神は人間の理解の内にあるだけではなく、実際に存在する。>

 

 アンセルムスによる神の存在証明は、①において「神はそれ以上大いなるものがないような存在である」という、彼の信仰告白・定義から出発しているがゆえに、批判されるのが一般的である。だが、バルトはアンセルムスに神学の本来のあるべき方法を学んだ。そして、従来の人間的・哲学的な思考を背景とした方法から転換して、『教会教義学』を書き始めた。バルトはアンセルムスの神の存在の証明に何を学んだのか。それは、バルトの書いた『知解を求める信仰』という書名が示している。えてして知解intellegereは、信仰を離れて自律的・抽象的に動きがちであるが、アンセルムスの神の存在証明においては、知解は信仰を前提として働く思考なのである。

 「この十年間にわたしはキリスト教教理の哲学的すなわち人間学的な基礎付けと解釈の最後の残滓を、除き去らねばならなかった。この決別の真の文書は、実は、1934年にブルンナーに対して書いた、多くの人に読まれた小冊子『否!』ではなく、むしろ1931年にあらわされたカンタベリーのアンセルムスの神の存在の証明に関する書物である。わたしはこの書物を、わたしのすべての書物の中心、最も満足すべきものと考えている。・・・この新しい発展の積極的な面は次の点に存している。すなわち、キリスト教教理は、もしそれがその名にふさわしくあるべきであり、また教会をこの世界の中にその名にふさわしく建設すべきであるならば、排他的かつ決定的にイエス・キリストの教理―われわれ人間に語りかける生ける神の言葉としてのイエス・キリストの教理であるということを、わたしはこの十年間に学ばねばならなかった。・・・わたしのあたらしい課題は、前に言ったことをもう一度取り上げて新しく考え直し、それをあらためてイエス・キリストにおける神の恩寵の神学としてはっきり言うことであった

 

③「キリスト論的集中」VS自然神学

 教会教義学における神学方法の構造は、キリスト論的集中による「信仰の類比」及び「関係の類比」である。神学の具体的対象はイエス・キリストにおける神と人間であるから、神学的な営みはあくまでもキリスト論的でなければならない。神を認識する時に文化キリスト教のように、人間の存在論から神を認識するのでは、神は単なる鏡に映った人間の顔にすぎなくなる。我々はイエス・キリストの出来事・受肉、つまりキリスト論から神を認識すべきなのである。それが「信仰の類比」ということばの意味するところである。

要点を述べる。「キリストを認めず、創造主なる神を知ろうとする者は、神を至高であるが抽象的・観念的にしか知ることができないという迷路に入り込んでいる。神は超越的ではあるが、我々とはどのような関係があるのかを見失うからである。また、キリストを抜きにして、聖霊体験において神を知ろうとする者は、別の迷路に迷い込む。神は我々と共にいます方とされるその体験が単なる主観的体験とどのように区別されるのかが分からないからである。また、私たちが旧約聖書を読むときに、そこにキリストにおける神の姿を見ることは可能であるばかりか、そうすべきである。また、我々が今日の体験として聖霊による慰めを経験するときに、我々はそこにキリストの姿を見ることができるし、またそうすべきである。キリストを離れて神を知ろうとするならば、我々の神知識は哲学的な観念論に陥るであろう、キリストを離れて聖霊を知ろうとするならば、私たちの聖霊観は魔術的な非人格的な力となる。私たちは、キリストにおいて御父を十分に知り、キリストにおいて聖霊の内住を経験することができる。」

 「1933年10月18日、バルトはゴーガルテンに対して『訣別』と題する一文を草し、これをもって『時の間』は廃刊された。ゴーガルテンは、この激動の中で、・・・・キリスト中心主義から離脱し、ついに『ドイツ・キリスト者』と合流していった。そこに潜む根本問題は、自然的あるいは哲学的な神概念をもってキリストをも理解するということであり、そのことによってキリストから聞こうとしなくなくなり、またキリスト以外のもの(水草注:ヒトラー)を神化したりキリスト化したりすることになるということである。バルトはそれを『自然神学』の問題という

 先に述べたように、バルトがもう一人の同志ブルンナーと訣別することになったのも、自然神学論争によってである。1934年ブルンナーはバルトに『自然と恩寵―カールバルトとの対話のために』というパンフレットを出版した。バルトはこれに対して『ナイン!エーミル・ブルンナーへの回答』を書いた。もっとも、ブルンナーはナチズムに走ったわけではない。

 

聖書観の問題点

聖書信仰の立場からバルトが正統主義と異なる点を指摘しておく。若い日に新カント派の影響を受けたバルトは科学と信仰の二元論の枠のなかにおいてしか思考できなかったという限界を持つと思われる。つまり、バルトは聖書の高層批評学という「科学」の自律を許してしまっていることの問題である。そして、聖書信仰者にとって聖書が「紙の教皇paper pope」となってしまっていると批判する。しかし、そうは言いつつもバルト自身は執拗なまでに聖書に密着して釈義し神学を論じるので、彼の主張は実質的に伝統的神学と重なる部分が多い。バルトは「聖書が教会を支配するのであって、教会が聖書を支配してはならないのである。」と言いつつも、「聖書といえどもやはり、神の啓示に関する人間的な証しにすぎない」とも言うのである。

バルトは啓示・証し・告白という三つの概念の関係を一つの比喩で語っている。戦場において、次のような出来事が起こった。すなわち、敵が、圧倒的な優勢をもって、先手を打って、攻撃に移った。最前線の部隊から、この前線の直ぐ背後に待機している増援部隊に、この攻撃の事実について、報告が来る。敵によってすでに攻撃されたこの部隊が、預言者・使徒であり、増援部隊にもたらされた彼らの報告が聖書である。増援部隊はいうまでもなく教会である

弁証法神学において、聖書を神のことばとするのは信仰者の主体的決断なのである。聖書における文書啓示という客観的基盤がないから、バルトとともに弁証法神学というグループに入るブルンナー、ブルトマン、ティリッヒといった神学者たちは、主張することがさまざまである。バルトはキリストの処女降誕も復活も信じるというようにかなり保守的であり、ブルンナーはキリストの処女降誕を否定するが復活は信じる。「非神話化」を主張するブルトマンは聖書の処女降誕、復活、再臨、主イエスが地上でなされた奇蹟を神話と見なして否定し、これらを非神話化しなければならないとする。またティリッヒの啓示論を読めば、これはもはやグノーシス主義である。聖書を前にして、神学者がそれぞれの主体的決断によって信じたいことを信じるという原理が、このような状況をもたらすといわざるをえまい。聖書は客観的に神のことばであり、我々はこの神のことばに主体的に応答して生きるという信仰告白。我々はこれを土台にしたい。

「草は枯れ、花はしぼむ。だが私たちの神のことばは永遠に立つ。」イザヤ四十:八