キェルケゴールの実存主義

 

 自由主義神学は西洋文明によって世界は進歩していくという楽観的な時代の空気のなかに生まれた。リッチュルの教えた「神の国」は、その典型である。彼らとて人間の不完全性を認めないほど盲目ではなかったが、その当面の不完全性も道徳の教師イエスを模範とすることによって克服され、地上に神の国を実現できると信じたのである。

ところが、二十世紀になり二つの世界大戦によって、人間と文明に対する楽観主義は決定的な打撃を受けた。思想界においても、第一次大戦後、シュペングラーの『西洋の没落』(1918-1922)というような本が登場する。また第二次大戦においてナチズムの所業は、人間の底知れぬ罪深さを我々の前に暴露した。近代人と現代人にとって、科学的合理主義が支配的で無自覚的な前提であることは共通している。では、近代人と現代人の違いは何か?近代人は科学が人類と世界を幸福にするという楽観主義でありえたのに対して、現代人はもはや科学が人類と世界を無意味なものとし破滅に導いてしまうであろうという悲観主義を抱きながら、科学にしがみつかざるをえず、その空虚さを神秘的世界へ逃避することによって満たそうとしているという点である。

こうした近代から現代への悲劇的な思想の流れを平明に記述したのは、フランシス・シェーファー『理性からの逃走』及び『それでは如何に生きるべきか』である。

 

1.実存主義

 

(1)既製品の時代に

 現代の状況について、ライナー・マリア・リルケ(1875-1927)は言っている。

「自分自身の死を持ちたいという願望は、ますます稀有になりつつある。いましばらくすれば、そういう死は、自分自身にふさわしい生と同様、ほとんど見当たらなくなってしまうだろう。そもそもなんでもが目の前に並んでいる世の中だ。生まれてくる。なんなりとひとつの生き方を見つける。できあいの生だ。」(『マルテの手記』)

 二つの革命が近代を造った。一つは産業革命。産業革命は大量生産を可能にして大衆社会を来たらせた。かつて服は母親や仕立屋が一人一人にあつらえて作るものだったが、皆が既製服を着るようになる。靴もカバンも家具も食物も住まいもみな既製品で、それに違和感さえおぼえなくなっている。違和感どころか、今や人はブランド服に身を固め、ブランド大学を卒業し、ブランド会社に所属していれば安心、所属しなければ不安になる。

 もう一つの革命とはフランス革命。ここに国民教育が始まる。国民教育の目的は、富国強兵にある。「富国」のためには、産業に必要な大量の均質な労働力を確保しなければならない。そのために、国民に画一化された教育をほどこす必要があった。また「強兵(強い軍隊)」のためには、従来の王侯の傭兵に代えて国民をみな兵士とし、その兵士たちが戦闘集団として機能するために画一化された教育を授ける必要があった。国家による公教育に、隊列行進が含まれるのは、軍事教練の一環である。

 こうしてフランス国民、イギリス国民、ドイツ国民、日本国民といったレッテルを貼り付けられて愛国者たることを求められ、既製の服を着、既製のアクセサリーを付け、既製の食品を食べ、既製の教育を受けて、既製の会社に入り、既製の子育てをして、既製の葬式をし、既製の墓にはいるというぐあいに、既製品としての生と死を営むようになったのが、近現代人である。この既製品の全体のなかに「私」は埋没してしまう。既製品の生を営む「私」が「私」でなければならない理由はどこにもない。「私」のスペアなど掃いて捨てるほどいるのである。

 思想的には唯物的・進化論的な科学的合理主義が、産業社会を後押ししてきた。神と魂と自由を学的対象の外に置いてしまったカントの第一批判(純粋理性批判)以来の科学的合理主義は哲学思想としては深みも重要性もないが、時代への実質的影響力は他の全ての哲学を圧倒している。科学的合理主義は、素朴に唯物的な自然主義に立ち、自然科学による認識を絶対視させる。「科学的な」という言葉は、物を考えない近現代人にとって「真実の」とほとんど同義語のようになっている。科学的合理主義においては、物質という全体のなかに、いっさいの個はのみ込まれてしまう。人間における「愛」も「希望」も「信仰」も生物学的次元に還元してしまう。人の死も獣の死もバクテリアの死も本質的に同一視され、さらには、生命現象もすべて物質の化学的・物理的現象に還元される。実在論的還元主義という思想的偶像崇拝である。

 結局、啓蒙主義を淵源とする産業革命と市民革命によって大衆社会が出現し、それを後押しする唯物的・進化論的な科学的合理主義とが近現代の最大の流れであり、この大河のなかに「私」が没して無意味になって行くのが近現代思想の悲劇的プロセスである。実存主義者とは、このような全体のなかに私が埋没することを拒んだ人々である。20世紀の思想界は、科学的合理主義を底流としつつ、一つはマルクス主義、もう一つは実存主義が思潮として流れていた時代であった。

 

(2)「主体性が真理である」--実存主義

 実存主義者たちはしばしば「実存主義者」と呼ばれることを拒む。「実存主義」という既製のレッテルを嫌うからであるが、そこがいかにも実存主義的である。とはいえ、一般的に実存主義者と言われるのは、哲学者としてはマルティン・ハイデガー、ジャン・ポール・サルトル、ガブリエル・マルセル、カール・ヤスパースなど。作家としてはライナ・マリア・リルケ、アルベール・カミュなど。神学者としてはカール・バルト、ディートリヒ・ボンヘッファー、エミール・ブルンナー、ルドルフ・ブルトマンら。彼らが共通して影響を受けているのは、キリスト教哲学者セーレン・キェルケゴール(1813-55)であるから、キェルケゴールの紹介をもって実存主義理解の助けとしたい。キェルケゴールの紹介に関しては、大学時代に教わった小川圭治博士に多くを負っている。小川博士はK.バルトの弟子でありキェルケゴールの専門家だった。

 デンマークの哲学者キェルケゴールは、知識人たちがヘーゲル流の進歩と体系の夢に酔いしれている十九世紀にあって、すでにヨーロッパ精神の絶望を感じとり、膨大な執筆をした。しかし、百年ほど早く生まれ過ぎた彼は、生前、誰にも理解されない「単独者」として四十二年の生涯を終えた。ヨーロッパ思想界がキェルケゴールを理解し始めたのは二十世紀を迎え第一次大戦の危機迫る時代であり、日本でキェルケゴールがブームとなったのは第二次大戦後の危機の時代である。

 キェルケゴールが生涯を通じてひたすらに追求したのは、人間の実存とその主体性をあきらかにすることである。彼は言う「私にとって真理であるような真理を見いだすこと、私がそのために生き、かつ死ぬことをねがうような理念を見いだすことである。いわゆる客観的真理を私が発見したとしても、それが私になんの役に立つというのか。」(『ギレライエの日記』)。当時支配的であったヘーゲル主義哲学者たちは先行する諸哲学を研究し尽くし、おのが体系にすべて取り込んで、弁証法の論理をもって説明し尽くすことを営みとしていた。しかし、キェルケゴールはその客観的な「真理」は「私」という主体の生と死には何の役にも立たないとした。彼にとって、主体性が真理なのであった。

 キェルケゴールが用いた意味での実存(existentia)ということばは、現実的存在としての人間を意味している。理想主義的な哲学では、「本質が実存に優先する」とされてきた。まず「人間かくあるべし」という本質(essentia プラトン用語でいえばイデア、俗語でいえばレッテル)があり、その本質が私やあなたという個々の人間として不完全ながら現れているというふうに。言い換えれば既製品としての人生があって、私はその既製品の人生のレールに乗っかって生きていくというふうに。実存とは、誰かがあらかじめ用意してくれた、抽象的・普遍的な「人間かくあるべし」ということに安易に満足せず、私が主体的に己が使命を自覚してその使命をいのちを賭けて選び取って生きていく人間のあり方を意味している。

 戦前、ほとんどの日本人は「天皇の臣民としての日本人」というお上からあてがわれたレッテル(本質・イデア)に生きがいを感じて生きていた。その時代の知識人たちの間には、田辺元や西田幾多郎の理想主義的な哲学が流行していた。しかし、敗戦とともにその「天皇の臣民」という既製のレッテルは破棄されてしまった。そこで、改めて人は自分は何者なのか、何のために生きるのかと自問せざるを得なくなった。敗戦後の日本にキェルケゴールのブームが起こったゆえんである。

 

(3)実存の三段階説

 前期キェルケゴールは人間実存の三段階説を唱えた。それによれば、人間実存は美的段階・倫理的段階・宗教的段階(A,B)に、弁証法的に発展するという。美的段階にある実存は、己の健康、富、名誉、享楽といったものを求め、才能を発展させ、己の欲望を最大限に開放することに執着する。しかし、美的段階にある実存はうちに矛盾の種を含んでいて、やがて倦怠と不安に直面し絶望する。美的段階のサンプルはネロ皇帝、カリグラ皇帝。

 絶望によって、美的段階は廃棄(止揚 アウフヘーベン)されて、実存は自己満足でなく社会的な責任を意識する倫理的段階に進む。美的実存は自己満足に目を向けていたが、倫理的段階の実存は、「よき父」「よき夫」となろうと、つまり、倫理的な人格の完成のために努力する。だが、倫理的実存が懸命に倫理的人格の完成のために努力してみると、ついには己に挫折することになる。倫理的実存もその内側に罪という矛盾の種を持っているからである。たとえば、漱石『こころ』の主人公「先生」のように。

 そして、倫理的段階は廃棄されて、実存は罪の自覚の中で宗教的段階に進む。信じるとはどういうことなのか。信じることはどこまでも人間の主体的な決断でなければならない。この段階を宗教性Aと呼ぶ。

 だが、信じることは、人間の主体を超える神との出会いがなければならない。絶対者である神が、神の側から一方的に自己啓示してくださったことによって、実存は神との出会いを果たすことができる。万物の主であるお方が、僕の姿をまとって人間イエス・キリストとしてこの世に現れたという、歴史的「逆説」への信仰が必要である。こうして、ついに「主体性は真理である」というキェルケゴールの生涯のテーマは廃棄されて「主体性は非真理である」という自覚に達する。これが宗教性Bである。

 

(4)関係としての自己

 従来、「人間とはかくかくしかじかなるものだ」という本質が掲げられがちであったが、キェルケゴールは『死に至る病』(斎藤訳 岩波文庫)で、人間を<関係としての自己>としてとらえている。有名な第一編の冒頭を引いておく。


人間は精神である。精神とは何であるか? 精神とは自己である。自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係する所の関係である。すなわち、関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている──それで自己とは単なる関係でなしに、関係が自己自身に関係するというそのことである。

 人間は有限性と無限性との、時間的なるものと永遠的なるものとの、自由と必然との、統合である。要するに人間とは統合である。統合とは二つのものの間の関係である。しかしこう考えただけでは、人間はいまだなんらの自己でもない。

 二つのものの間の関係においては関係それ自身は否定的統一としての第三者である。それら二つのものは関係に対して関係するのであり、それも関係の中で関係に対して関係するのである。たとえば、人間が霊なりとせられる場合、霊と肉との関係はそのような関係である。これに反して関係がそれ自身に対して関係するということになれば、この関係こそは積極的な第三者なのであり、そしてこれが自己なのである。」

 

 <人間=精神=自己>というのは、人間とは自らを振り返り考えるものであるということ。
 そして、人間は「有限性と無限性」「時間と永遠」「自由と必然」という相矛盾するもの間につるされているものである。神とこの世との間にあり、両者の矛盾のせめぎあいにあるものだ。だが、そういうものだなあと眺めているだけでは、ちゃんと自己にかかわったことにはならない。
 この矛盾をかかえた現実を認識して、主体的・責任的にどう生きるかを決断して、両者の矛盾を廃棄して自らをより高い第三者として形成していく。これが実存的な生き方の自己である。

<付記>

 キェルケゴールの作品は常にこういう難解な表現ばかりでなく、作品によってはたいへん親しみやすく読みやすい。『死に至る病』も、この最初の箇所を過ぎれば理解することはそれほど困難ではない。人間の絶望を考察して4つに分類し、絶望は罪であるという。本書の続きは『キリスト者の修練』であり、そこで救済が論じられる。両書を通じて目指されていることは、真実のキリスト者となる道を説くことである。

 では、なぜ『死に至る病』では、これほど読みにくい表現を採ったのだろうか?おそらく、こうした表現が彼が本書において想定した読者層、つまり、ヘーゲリアンの知識人を引き付ける効果があると判断したからではなかろうか。ちょうどマタイ福音書の冒頭の系図がユダヤ人たちをひきつけ、ヨハネ福音書の冒頭の哲学的な表現がギリシャ人を引き付けたように。

 

(5)聖書的観点からの批評

 キェルケゴールの文体は難解でありながら魅力的で、読者は己の生き方が揺さぶられるような経験をする。私たちがキェルケゴールに学ぶべきことは、私たちは人生の傍観者でいることは許されず、主体的に生きなければならないということである。

 けれども、キェルケゴールについて残念な点は、その実存的思考が、主体性を追求するあまり、真理の客観性というものを極度に軽んじることである。キェルケゴールの「主体性が真理である」という命題は、言い換えれば、<イワシの頭も信心である。客観的にはイワシの頭であっても、一向、構わない。私にとってそれが神であれば、それは真理である。>という非合理な飛躍である。

 実際、先にも述べたように、実存主義者にはキェルケゴールやマルセルやバルトのように神を信じる者もいれば、サルトルやカミュのように無神論者もいる。実存主義という立場からいえば、有神論であれ、無神論であれ、主体的に生きていればよいのである。客観的に、有神論が真理であろうと、無神論が真理であろうと問わない。実存主義にとっては、主体性が真理であるから。主体的真理と客観的真理の分離という危うさが、実存主義の問題性である。この分離は18世紀のカントの「科学と信仰」の二元論の枠組みをそのまま継承しているということである。

 この客観的真理と主体的真理の分離の構図は、現代思想に共通する。多くの現代人にとっての「客観的真理」は科学的合理主義が提供する「真理」つまり、人間は高等なサルかロボットかDNA情報の束にすぎないということである。ならば、人間の尊厳や生きる意味はどこにありえよう。客観的真理があまりにもむなしいので、現代人は非合理な飛躍としての覚醒剤や過剰な刺激やカルトの神秘体験に走る。彼らは生きる意味など考える必要がないように逃避しているのである。

 

キェルケゴールの影響を強く受けたK.バルトの啓示観も客観的真理と主体的真理の分離構造をなしている。バルトによれば、聖書は客観的には、啓示の体験者の誤りを含む証言であって、神のことばではない。しかし、聖書を前に、神に実存的・主体的に応答するとき、聖書はその人にとって<神のことばになる>という。

 聖書主義の立場からいえば、聖書は客観的にも神のことばである。聖書は私が信じようが信じまいが神のことばなのである。聖書は、信じる者には祝福をもたらし、信じない者には呪いをもたらす神の力あることばである。神が我々に求めていらっしゃるのは、非合理な飛躍ではない。神が我々に求めたまうのは、聖霊によって啓示された客観的真理である神のことばを、聖霊の照らしによって主体的に信じて従うことなのである。