ギリシャの哲学は最初、紀元前7世紀のタレスをはじめとするミレトス派の自然哲学として始まったが、紀元前5世紀ソクラテスにいたって自分自身つまり人間自身を問い始めたと言われる。しかし、旧約聖書を見れば、最古の巻であろうとされるヨブ記のなかでヨブは、「人とは何者なのでしょう。あなたがこれを尊び、これに御心を留められるとは。」と神に問いかけている。人間とは何者なのかという問いは根源的なものである。ヨブの問いはその古さもさることながら、創造主の前でこそ人間存在が何者であるのかという問いに対する真実な答えを期待する点が重要な点である。

 神は、創造のわざの「六日目」の最後に人間を、「神のかたちにおいて」創造されたと創世記第一章は記している。ここにもっとも根本的な人間の特徴がある。だが、この点だけで人間の本性は理解できない。創世記第三章は、その「神のかたちにおいて」創造された人間が神に背いてしまったと記している。聖書は、人間を理解するには、この両面から捉えなければならないと私たちに教えている。

 

 「人間にその偉大さを示さないで、彼がいかに禽獣にひとしいかということばかり知らせるのは危険である。人間にその下劣さを示さないで、その偉大さばかり知らせるのも、危険である。人間にそのいずれをも知らせずにおくのは、なおさら危険である。しかし、人間にその両方を示してやるのは、きわめて有益である。人間は自己を禽獣にひとしいと思ってはならないし、天使にひとしいと思ってもならない。そのいずれを知らずにいてもいけない。両方をともに知るべきである。」(パスカル『パンセ』L121,B418)

 

1 創造における人間

 

「そして神は『われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:2627

 

●創世記126節における「われわれ」の解釈をめぐって

新改訳第二版「そして神は、『われわれに似るように(ベ・ツァルメヌー)、われわれのかたちに(キ・デムーテヌー)、人を造ろう。(中略)』と仰せられた。」

 「神は唯一である」というのはトーラー(モーセ五書)における中心的メッセージであり、創世記1章は異教徒が神々と崇めているすべてのものはみな被造物であり、崇めるべきは創造主おひとりであることを伝えようとしている。ところが、その記事において、神が「われわれのかたち(ツェレム)において、われわれのかたち(デムート)に」と言明していることは不思議なことである。「われわれの」にあたるのは「ヌー」という接尾辞である。また感心するのは、写本記者たちがこの「われわれ」を保存し続けてきたという事実である。

では、執筆者はどういう意図をもってこれを書いたのだろうか。聖書の人言性に力点を置く解釈者は、この「われわれの」というのは当時オリエントでの表現方法における「尊厳の複数」として理解すべきであるとか、あるいは神が天使たちに相談したと解すべきだといった主張をする。実際、歴史的文法的聖書解釈という枠の中では、唯一の神が「われわれ」と言明したと記したのかということについては、そのくらいの説明しかしようがないだろう。

 では、この箇所について聖書の他の箇所はどうコメントしているだろうか。旧約聖書のなかでは箴言8章の「知恵(ハークマー)」は創世記126,27節の「われわれ」にある光を当てているように思われる。ここで「わたし」と自称しているのは人格に擬せられている「知恵」である。

 

「【主】は、その働きを始める前から、そのみわざの初めから、わたしを得ておられた。

 大昔から、初めから、大地の始まりから、わたしは立てられた。

 深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。

 山が立てられる前に、丘より先に、わたしはすでに生まれていた。

 神がまだ地も野原も、この世の最初のちりも造られなかったときに。

 神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。

 神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、

 海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、

 わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。

 わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しみ、

 神の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ。 」(箴言8:2236

 

 822節の「わたしを得ておられた」の「得る」と訳されていくことばは、文語訳・口語訳・新共同訳では「つくる」「造る」と訳されている。原語は「カーナー」という語であり、「得る」というのが最も一般的な訳語であるから、そうだとすると「わたし」を神の被造物と解する必要はない。創世記1章の創造記事は誰もが知る章であった以上、箴言の記者は創世記1章の「われわれ」を意識せずに書いたとは考えることは不可能である。だとすれば、箴言822節以下の人格的な「知恵」が創世記126,27節において神が相談した相手であり「われわれ」の構成員であると、箴言の記者は啓示を得て書いたのであろう。啓示の漸進性ということである。それは恐らく創世記1章の記者の意図を超えていたであろうけれども。

 古代教会の時代から、創世記1章の「われわれ」については、こうした解釈があった。古代教父ユスティノス(100?~162?)は「ユダヤ人トリュフォンとの対話」62:1-4の中で、「この箇所によってわれわれは、神が数として区別された、理性をもつ何者かに向かって語っているということを確実に知る。」として、「むしろ、実際父から出、すべての被造物より先に生まれた方が彼とともにいたのであり、その彼に父が語りかけたのだ。それは御言葉がソロモンによって明らかにしたとおりである。つまり、まさに彼こそすべての被造物に先立つ根源であり、父から子として生まれた方であり、ソロモンが知恵と呼ぶ方である。」と言っている。また、同じく教父エイレナイオス(130202)も「使徒たちの使信の説明」55で、創世記1:26を説明して、「父は不思議な助言者としての子に語りかけているのである。」と述べている。この理解は、執筆者の意図に到達することを最終目的とする釈義の人々は受け入れがたいであろうが、われわれは「聖書はすべて神の霊感による」(2テモテ3:16)ことを前提として考えていく。

 さらに、新約聖書記者たちは、この創世記の126,27節における「われわれ」についての真相を啓示している。まずヨハネ福音書では・・・

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 この方は、初めに神とともにおられた。 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。」(ヨハネ113

 また、主イエスは次のように祈られた。

「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」(ヨハネ175

 コロサイ書もまた次のように述べている。

「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。  なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ11517

 つまり、ヨハネ福音書とコロサイ書によるならば、創世記1章で、神が人類を創造なさるにあたって「われわれ」と言明された理由は、御父と御子とが(三位一体論的にいえば御父と御子は聖霊における交わりにおいて)そこにおられたからであるということが、明らかになる。

 新約聖書が未完成だった時代、初代教会にとっての聖書は旧約聖書のみであった。初代教会の人々にとって、旧約聖書のどこに人として世に来られる以前の神の御子、いわゆる先在のキリストが記されているのかを探し出すことは、たいへん重要なことであったと推察される。主イエスは復活の後、エマオ途上で「モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」(ルカ2427)とある。主イエスが旧約聖書の第一巻創世記から説き明かされたとすると、主の最初の説き明かしは、創世記126,27節における「われわれ」にかんすることであったのではないかと、つい想像をたくましくしてしまう。

また、ヨハネ福音書、コロサイ書の人言性という観点からいえば、彼らは創世記の件の箇所をそのように「解釈」したと表現することになろうが、神言性という観点から言うならば、両書の記者は創世記における創造記事の解釈に関してそのような解明を「啓示」として受けたのである。やはり啓示の漸進性である。

 

●「神のかたち」(その1)・・・従来の「神のかたち」理解の概観

 創世記127節の「神のかたち」とは何を意味するのかということについて、古代から多くの議論がなされてきた。M.エリクソンは、実体的見解、関係的見解、機能的見解という三つに整理している

 実体的見解とは神のかたちを、人間の構成における明白な特徴または資質と同一視するということである。ローマ教会はエイレナイオス以来、創世記1章26,27節でかたち(ツェレム)と似姿(デムート)という二つの言葉が用いられていることに着目し、自然的賜物は ツェレム、超自然的賜物はデムートであるとして、堕落によって超自然的賜物は失われたが、自然的賜物は残されているとする。
 しかし、プロテスタントはルター以来、創世記5章1節と同96節において、デムートとツェレムは相互変換可能な語として用いられているので、両者を区別する必要はないとしている。そうした区別を排した上で、改革派神学は伝統的にエペソ書4:24、コロサイ書3:10から逆算することによって、「神のかたち」を真の知識・義・聖であるとしてきた。

 関係的見解とは「人間は特定の関係の中に立つときに神のかたちの中にいる。あるいはそのかたちを現すと言うことができるのであり、それがまさに神のかたちなのである」という見解である 。ブルンナーによれば、神に対する応答的責任関係のなかに人間があり、真の人間性を構成するのは、他者を愛することである。K.バルトによれば、「われわれは人を造ろう」と決意された神によって造られた人間が男と女として造られた点に、神のかたちを見る。

関係的見解の背景には、実存主義哲学における「間主観性」という主張があると思われる。デカルト的理性は、<主観と対象>という認識の捉え方をしてきたが、そうした理性のありかたは、認識の対象が、人であってもそれを物として扱うという問題性を生じてきた。実存主義哲学は、人間同士の関係は、<主観と対象><我とそれ>ではなく、<主観と主観><我と汝>あるいは<我と我>の関係であることを認識することの重要性に着目するようになった。

 機能的見解とは、神のかたちは人間の行うことの中にあるという見解。被造世界に対する統治支配権(dominion)行使である。すなわち、神のかたちに造られた人に対して、神は人が被造物を支配せよと命じられたことを理由として、人における神のかたちとは被造物に対する統治支配権であると主張する。

 

●「神のかたち」(その2)・・・「神のかたち」とは御子である

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「そして神は『われわれに似るように、われわれのかたちにおいて、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。』と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちにおいて創造された。神のかたちにおいて彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。」(創世記1:2627 私訳)

 

「御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。  なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。 御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。」(コロサイ11517

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「神のかたち」に該当することばが、創世記12627節に二種類ある。一つは上記では「われわれに似るように」と訳されている部分、「われわれのかたちにおいて(ベ・ツェレムヌー)」のツェレムである。もう一つは、「われわれのかたちに(キ・デムーテヌ)」とあるデムートである。70人訳ギリシャ語聖書では、ツェレムはeikon、デムートはhomoiosisと訳し、ウルガタではツェレムはimago、デムートはsimilitudeと訳し、英訳聖書はツェレムはimage、デムートはlikenessと訳している。両者は同じことを意味するのか、それとも違いがあるのだろうか。ルターはこれを並行法とみなし両者を区別する根拠はないとして、以後、プロテスタントの注解書も多くは彼らに従っている。だが、古代教父エイレナイオスとオリゲネスは両者を区別する見解を示している。この区別には救いの理解全体にかかわる理由がある。

 エイレナイオス(130-200AD)は、創造における「神のかたち」は受肉した第二位格つまり御子であると述べている。「『・・・(神は)人を神の似像として造ったからである。』そして、似像とは神の子であり、人間は(その神の子の)似像に造られたのであった。 」(『使徒たちの使信の説明』22)またエイレナイオスは御子と聖霊を父なる神の両手に譬えて、御子を「かたち」に関係付け、聖霊を「似姿」に関係付け、神は御子と聖霊という両手でもって人間を造られたとし、「かたち」は人間においては、肉体 ・理性・自由・自律性といった本性に見出されるとし、他方、聖霊が与える「似姿」とは、肉体の救いを究極的に完成させる神の本性としての「不死性」を意味するとする。

 オリゲネス(185-254AD)は、『諸原理について』第三巻で創世記126節のこれら二つのことばを区別して解釈している。すなわち、神が26節で「我々のかたち、我々の似姿にしたがって人を造ろう」と言いながら、27節で「神のかたちに従って造り」と述べて、似姿については沈黙しているのは、「人間が最初に創造されたときに、像(かたち)としての身分を与えられたが、似姿という完全さは完成の時まで留保されていることを示しているのにほかならない。(中略)像としての身分を与えられたことで、始めから完全になることの可能性が人間に与えられているが、人間は終わりの時になって初めて、わざを遂行することによって、完全な似姿を自ら仕上げるべきである 。」というのである。

 また、オリゲネスもエイレナイオスと同様、創世記1章における「神のかたち」とは御子であると述べている。「では、その像に似姿として人間が造られた神の像として、われらの救い主のほかに何があろう。この方こそ、『すべて造られたものに先立って生まれた方』(コロ1:15)であり、『神の栄光の輝きであり、神の本質の完全な現れ』(ヘブ1:3)と言われた方であり、自ら自身について『私は父のうちにおり、父は私の内におられる』(ヨハ14:10)、『私を見た者は父を見たのである』(ヨハ14:9)という方である。 」

 このように、オリゲネスとエイレナイオスが共通して述べているふたつのポイントがある。一つは、創世記1章における「神のかたち」は御子であるということである。アタナシオスも『言の受肉』において次のように言っている。「善なる方として〔神は〕、彼ら人間をご自分の像であるわれらの主イエス・キリストにあずからせ、ご自分の像にかたどり、似姿にかたどって彼ら〔人間〕を造られたのである。」〔11:3〕、「父の像である、父のいとも聖なる子が、ご自分にかたどって造られた人間を新たにし、罪の赦しを通して失われたものを取り戻すために、われわれのところに来られたのである。」(14:1)

エイレナイオスとオリゲネスの「神のかたち」理解において、もう一つ重要な点は、創造における人間は未完成であって、終わりの時に究極的な完成を見るという理解であるである。救いとは、堕落した状態から堕落前の創造の状態に復帰させることではなく、創造の状態が目指していた完成に至らせることを意味している。L.ベルコフは次のように言っている。「アダムは実に能動的な神聖の状態に創造され、死のほうに屈服しなかった。しかしいまだ彼は、人間として市場の特権を保有しないし、錯誤と罪悪と死滅の可能性を克服してはいなかった。彼はいまだ最高度の神聖を保持していなかったし、十分に生命を満喫してはいなかったのである。」(『改革派神学通論』大山忠一訳p149)最高度の神聖、生命の満喫は、アダムが創造の契約において善悪の知識の木の試みに合格することによって得られるはずであり、御子イエスが再臨されて救いの完成をなされたときに得られるはずのものである。

 

 

 

 エイレナイオス、オリゲネス、アタナシオスの創世記1章の「神のかたち」に関する理解は、新約聖書の創世記1章の「神のかたち」理解であり、アウグスティヌスより前の古代教会における一般的な理解だったのであろう。その理解の根拠はコロサイ書115節「御子は見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。」である。 

 コロサイ書で「神のかたち」の「かたち」にあたる語はeikonであり、これは七十人訳ギリシャ語聖書の創世記1章における「神のかたち」(eikon)と一致している。文脈的にも、コロサイ書1章の当該部分は万物の創造について述べた箇所であることを鑑みれば、コロサイ書の記者が創世記の創造記事を意識していたことは明白である。

 初代キリスト教会・古代教会における主要な関心事の一つは、キリストが受肉以前の旧約時代に生きておられ、さらに御父とともに永遠にいまし、旧約時代にも生きていたお方であられるということであった。イエスが神であられる以上、それは当然のことであった。イエスご自身、ご自分はアブラハムにあたかも昨日会ってきたように話された(ヨハネ8:58)。預言者イザヤは神殿でイエスの栄光を見たのだともおっしゃった(イザヤ6:1,ヨハネ12:41)。ヨハネ福音書冒頭にも、同17章のイエスの大祭司の祈りにも、ピリピ書2章のキリストの受肉についての記述にも、われわれは先在のキリストを見る。

 

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「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は初めに神と共にあった。」ヨハネ1:1,2

「父よ、世が造られる前に、わたしがみそばで持っていた栄光で、今み前にわたしを輝かせて下さい。」ヨハネ17:5

キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、」ピリピ2:6

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 創世記126,27の「神のかたち」がキリストであるというコロサイ書の記述は、上述のような新約聖書の記述のひとつだということができようし、初代キリスト教会の旧約聖書におけるキリスト理解のひとつであったと思われる。

 創世記の人言性という観点からいえば、創世記記者が12627節で「神のかたち」について記したとき、彼が「『神のかたち』とは神の御子、来るべきキリストである」という理解をもっていたとは言いがたいであろう。コロサイ書の人言性という観点から言えば、コロサイ書記者は創世記の当該箇所の「神のかたち」は神の御子のことなのだと「解釈」したのである。だが、聖書の神言性という観点から言えば、神は創世記記者を導いて「神のかたち」と記させ、時満ちてコロサイ書記者にあの創世記の「神のかたち」という言葉は「見えない神の御子」を意味していたことを明らかにされたのである。

 コロサイ書115節に照らせば、創世記12627節の「神のかたち」は御子である。人間は「神のかたち」である御子に似た者として造られたのである。コロサイ書に則れば、創世記12627節の翻訳は文語訳聖書がその趣旨を最も明瞭している点、正解であると言える。

 

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「神言給けるは我儕に象りて我儕の像の如くに我儕人を造り之に海の魚と天空の鳥と家畜と全地と地に匍ふ所の諸の昆蟲を治めんと 神其像の如くに人を創造たまへり即ち神の像の如くに之を創造之を男と女に創造たまへり』(創世記1:2627

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 またローマ書8:29には

 

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「なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。」

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とある。これはキリスト者の予定に関するみことばであるが、その予定とは「御子のかたち(エイコーン)と同じ姿」への予定である。本来、人は「神のかたち」である御子と同じ姿となるように選ばれ、「御子のかたち」に似た者として創造されたが、罪を犯してそこから堕ちてしまったので、この終りの時、御子が人として来られ、人をご自分に似た者として新たに創造するために来られたのである。神は、人を、「神のかたち」である御子にしたがって、またその完成をめざして創造された。そして、救いとは、御子のかたちが回復することであり、完成されることを意味している。

 

●「神のかたち」(その3)・・・<知・義・聖>と<預言職・王職・祭司職>

 人がそれにしたがって創造されたモデル「神のかたち」が、御子つまり三位一体の第二位格であるという理解は、従来の「神のかたち」を実体的なものとしてとらえる理解、あるいは、職務としてとらえる理解を排除するのではなく、むしろ包摂するものである。というのは、「神のかたち」である御子のうちにはすべてが含まれているからである。

 エペソ書4:23,24には次のようにある。

「またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」

 アダムにあって失われた「神のかたち」への類似性が、キリストにあって新生することによって回復される。それは「義と聖」をもってなされるということである。

コロサイ書3:10も同じような文脈の中で次のように言う。

「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたち(eikon)に似せられてますます新しくされ、真の知識(epignosis)に至るのです。」

「造り主のかたち」とは、コロサイ書115節「御子は見えない神のかたちである」とあるように、御子のことを指している。新しい人は、御子に似せられてますます新しくされ、「真の知識」にいたる。

  以上から、ひとたびアダムにあって失われ毀損され、キリストにあって回復される「神のかたち」への類似性は真の知識と義と聖であるということになる。これは、「神のかたち」に関する実体的見解のところで述べたように、改革派神学で整理されたことである。

さらに、改革派神学ではキリストの職務として預言職・王職・祭司職の三職を挙げ、キリストのからだとしての教会の職務も預言職・王職・祭司職を受けている。これら三職を真の知識・義・聖と関連付けることができる。すなわち預言職は真の知識と関係し、王職は義と関係し、祭司職は聖と関係しているということである。その意味で、「神のかたち」に似せて造られた者として、人間は本来的に預言者・王・祭司の職務をになっているということができる。「神のかたち」である御子の真の知識・義・聖は、御子の預言職・王職・祭司職と対応し、人間が御子=「神のかたち」にしたがって造られたということは、人間は真の知識・義・聖が与えられていたということであり、また、キリストにあって新生した者は、聖化の過程で真の知識と義と聖が回復し完成に向かって行き、それをもって預言職・祭司職・王職を果たしていくのである。

 「神のかたち」の関係的見解について。御子は「神のかたち」として、聖霊にあって父との愛の交わりのうちに永遠から永遠に生きるお方である。さらに、御子は神と被造物、格別、人間との仲保者となられて神と人との人格的関係を回復する務めを担われる。このお方に似せられた存在としての人間が、全身全霊をもって神を愛し、隣人を自分自身のように愛し、被造物をも正しく管理して生きるのは、まことに当然のことである。