03神論:三一の創造主と被造物の構造

 (創世記1章1-23節、マタイ福音書2819節、出エジプト31314

 

0301神論 他の神観との比較

 「初めに、神が天と地を創造した。」創世記1:1

 日本では、神と呼ばれるものに満ちている。特に近年、若者ことばのなかで、サッカーの素晴らしいシュートでも、論敵をやっつける弁舌でも、人に対する素敵な接し方でも、なんでもかんでも「神!」と賞賛する風潮がある。たしかに昔から「神業」というような表現があったけれども、今日ほど手軽ではなかった。神を恐れることを知らない不敬虔な時代なのだろう。聖書にご自身を啓示された神はどのようなお方であるのかを知るために、まず他の神観との比較をしてみたい。

 

(1)多神教(polytheism)・・・人格的であっても有限な神々・・・・神話の神々

創世記第一章には、神による天地万物の創造が七日目の安息まで含めて一週間に分けて記されている。光、大気、陸地、海、植物、天体、海の生き物、陸の生き物が順々に造られて、最後に人間が神のかたちにおいて創造された。

創世記第一章が伝えたいメッセージはなんだろうか?釈義の原則のひとつは、創世記記者が想定した最初の読者が誰であるかを確認することである。この場合、第一の読者はエジプト脱出してきたイスラエルの民である。彼らは400年間多神教の地エジプトで暮らしてきたので、真の神を見失い被造物をあがめる偶像崇拝に陥っていた。だから、創世記記者はまず、エジプトであがめられていたさまざまの被造物、光、大気、陸地、海、植物、月・星・太陽、海の動物、陸の動物たちはみな、創造主の作品であって神々ではなく、唯一礼拝すべきおかたは創造主であるということを伝えようとした。

 偶像崇拝とはなにか?それは被造物を神としてあがめることを意味する。多神教とは、もろもろの被造物を神々として仕立て上げることである。「不滅の神のみ栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに代えてしまいました。・・・それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。」(ロマ1:23,25)

典型的な例は、『古事記』の神々、ギリシャ神話、ローマ神話、北欧神話の神々、ヒンズー教の神々である。ギリシャ神話は古事記などに登場する神々は人格的ではありえるが、彼らはみな有限であって、全知全能ではない。ギリシャ神話の主神ゼウスは無類の女好きで浮気を繰り返し、妻ヘラはいつも妬いていて浮気の現場を押さえようとするが、夫は逃げ回っている。古事記では女神イザナミは死んでしまったり、アマテラスは弟スサノウの乱暴狼藉にショックを受けて天岩戸に引きこもってしまう。北欧神話ではヨッツンハイムの神々は巨人族との戦争で結局絶滅してしまう。多神教の神々は、要するに、近所のおっさん、おばさんたちなのである。これらの神々は人間の延長線上に空想されて造られた神々であるから、親しみやすさは感じることはできるが、信頼するに値しない。

また、主イエスが特に取り上げた偶像崇拝はマモニズム(拝金主義)であることにも注目しておきたい。「だれも、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)主イエス御在世当時、イスラエルの中にはあからさまな偶像崇拝はなかったけれども、主イエスは富・金銭というものが人間にとって強力な偶像となっている現実を指摘なさったのである。富の偶像性は現代になってますます露わになっている。2011年の福島第一原発破綻以降、わたしたちは「原発村」と呼ばれる原発推進の利権集団は政・財・官界ばかりでなく学界までも呑み込んでいる現実を知らされて、私たちは慄然・呆然とさせられてきた。

新約聖書が取り上げているもう一つの偶像崇拝は、国家崇拝である。黙示録13章には「海からの獣」と呼ばれる国家権力者が出てくるが、彼は「竜」すなわち悪魔から力と位と権威を受けると、侵略戦争、教会迫害をし、その際、「地から上ってきた獣」と呼ばれる偽預言者を用いて国家崇拝を強いる。古代教会の時代の皇帝崇拝はその典型だが、類似のことは近代まで全体主義国家で繰り返されてきた。

聖書は言う。「造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。」(ローマ1:25

 

(2)汎神論(pantheism)・・・非人格的な原理「神」・・・・・・・哲学者の「神」

 これに対して、多神教で満足できない考え深い人々が、被造物全体を神とするのが汎神論である。古代ギリシャの時代にはすでにオリンポスの神々は神と呼ぶに値しないとする哲学者がいた。汎神論者は「すべては神である」という。多神教の神々は、しばしば不道徳であり、運命に翻弄されて死んでしまったりさえする頼りない有限の連中であり、神と呼ぶに値しない。むしろ神々を翻弄している運命や宇宙の理法が「神」と呼ぶに値するものだということになる。汎神論でも「神」ということばはもちいるものの、汎神論における「神」は非人格な存在であり、「自然」とか「宇宙の原理」「自然の生命の根源」「宇宙精神」「存在」などと呼ばれる。宇宙という規模でなく、ニューエイジ系の地球規模で汎神論をとなえる人々は「ガイア」というギリシャ神話の大地の女神の名をつけたりもしている。

汎神論では一切は「神」の現れである。もし、すべてである「神」を大海に譬えれば、神々も人も動物も植物もありとあらゆるものは現れては消える多くの波にすぎない。哲学的な宗教はたいてい汎神論である。大乗仏教、スピノザ(1632-77) やヘーゲル(1770-1831) に代表されるドイツ観念論哲学は汎神論である。神学ではシュライエルマッハーは汎神論。ニューエイジ・ムーブメントも典型的な汎神論である。本来、人間も「神」の現れであるが、そのことを忘却していることによって苦しみに陥っているとする。だから、自らが「神」の現れであることに気づくこと、「神」と一体化することがすなわち救いであるという。

 汎神論の主張は、「神」は世界(自然)と一体であり無限である。それゆえ、「神」は非人格的な原理である。人格は知性・感情・意志をもつ個的な存在だが、多様な現われをしている万物そのものである「神」がそうした人格であることはありえないからである。世界には善があり悪がある。見る物がおり見られる物がある。赤があり黒があり緑があり、黄色がある。光があり闇がある。男がおり、女がいる。人間がおり、その人間の中にはそれぞれ別々の人々である。こうした多様性を生み出す一つのものは、人間の論理から言えば、善悪、男女、悲喜、赤黒黄色青をすべて含んでいるものということになる。そういうものが一個の人格であるとは人間の論理では考えられない。これらの一切を包み込んで、それらを現わす原理自体は、悲しみも喜びも怒りも超越している原理であると言わねばならない。知る者と知られる者、彼我を超越していなければならない。働き掛ける者と働き掛けられる者との区別を超越していなければならない。したがって、汎神論における神は「神」とか「仏」とか一見人格をイメージさせる言葉を用いたとしても、実際には、それは人格ではなく非人格の宇宙原理あるいは精神ということである。

 汎神論においては、神々・人間・動植物・無生物すべてからなる世界は「神」の現れれである。神々もまた「神」の現われと見られるので、汎神論は多神論を包摂する。仏教が梵天、帝釈天・弁天、鬼子母神といったもともとヒンズー教の神々を受け入れているのは本質的にはそのせいであろう。あるいはポルフィリオス(232-304) いうネオ・プラトニストはもろもろの偶像礼拝を容認している。自由主義神学が異教に対して寛容なのは、それが唯一神論ではなくなって、すでに、汎神論化しているからである。

 しかし、聖書に啓示されている真の神は、世界とは他者である。(これを神の超越性と呼ぶ)主イエスは父なる神に向かって次のように言われた、「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」(ヨハネ17:5)父と御子は世界が存在する前から存在しておられた。世界がなくとも神は存在する。他者である神、つまり超越神を認めない世界観は、論理的に言って多神教か汎神論のいずれかでしかありえない。世界を超越する神がいないというならば、世界全体を神とするのが汎神論であり、世界の一部を神々とするのが多神教とするほかないからである。

 

(3)二元論(dualism)

 存在にかんする二元論についても書いておくことが必要かと思われるので、少々触れておきたい。二元論というのは、複数であるから多神教の類型に属するのかというと、そうではなく、むしろ哲学的な色合いを持つ汎神論につながる考え方である。古代キリスト教会にとっての異端であったグノーシス主義はその典型であり、その影響を受けたマルキオンも二元論である。3世紀のまた古代教父アウグスティヌスが若い日に迷い込んでいたマニ教も二元論であり、中世のカタリ派はその流れにあった。

 二元論というのは、世界は相反する二つの原理や基本的要素から構成されるという世界観である。善悪二元論と、精神と物質の二元論が重層して、精神(霊)は善であり物質(肉体)は悪であるという考え方が典型的なものである。グノーシス主義はバリエーションがあるので一概にこういうものだとは言いきれないが、ひとつのタイプを紹介してみよう。二元論者はこれを聖書に適用して、旧約の神は物質世界を造った妬みと怒りに満ちた悪しき神であり、新約の神は精神の愛の神であるという。また、イエスは神であるから、悪である肉体を持ち、(苦は悪だから)苦しむことはありえず、人のように見えただけで実際は人となって来られたのではないとした。これを仮現説(ドケティズム)という(1ヨハネ4:12参照)

 精神と肉体の二元論の発想は、肉体と精神の葛藤という人間の経験から出ていると思われる。抗いがたい肉体の性的欲求をなんとかして精神力で抑えようとして苦悩する青年が、肉体を悪とみなし精神を善であるみなすことはありがちなことである。肉体が悪であるとすれば、肉体から精神を解き放つことが救いということになる。そこで精神を捕らえている肉体の力を削ぐために、断食などさまざまな肉体を苦しめる修行をすることが二元論的宗教では有効だとされる。しかし、苦行の結果、精神と肉体は別物であるから肉体をいかに汚したとしても精神は汚れることはないという境地に達すると、今度は肉体の欲するままに振舞っても精神は汚れないとも教えられる。オウム真理教の初心者たちは食うや食わずの修行をし、指導者たちは酒池肉林の生活をしていたのも、同じ思想類型から出たものと思われる。

 しかし、思いめぐらせば、善悪二元論は一元論に収斂されることがわかる。善と悪とが同等の権利をもって存在しているとすれば、どちらが善でどちらが悪であるかは任意のことであるはずであるが、そうでないのは、善が悪に対してより高次の原理であるからである。つまり、善が悪を定めているのである。ゆえに、善悪二元論は善一元論に収斂されて、悪は善の欠如相にすぎない状態ということになる。青年時代のアウグスティヌスは、マニ教に失望する日が来て後、新プラトン派の一元論に転じた。彼がマニ教の何に失望したかについては、『告白』』には必ずしも明らかにはされていないけれども、上のような思考過程を通ったのかもしれない。また実存的な言い方をすれば、善悪二元論では、人間は善と悪との間に分裂し苦悩するばかりで、何の解決もないのである。

 

 聖書には悪魔が出て来るので、善悪二元論と誤解するむきもあるが、ヨブ記を読めば明白なように、悪魔は神と対等ではなく、ヨブを試みるにも神の許可を得なければならない。悪魔とその手下どもが対等に敵対しうるのは、せいぜい神の御使いたちにすぎない(黙示録12:78)。しかも、悪魔の企てた悪事は、神の摂理によって善に転じられてしまう。ヨブは悪魔に苦しめられたが、その苦しみの過程で神と人との絶対的なへだたりを悟り(ヨブ9:23)、神と人との間の仲保者が必要なのだと悟るようになり(同9:33)、その保証人が天において自分のために神にとりなしてくださるという信仰を抱くようになり(同16:1921)、ついには、人を贖うために後の日に地上に来てくださるという希望を告白するにいたる(19:2527)。そして、最後にはヨブは偉大な神の前に悔い改めて讃美することになる。こうして、義人の苦しみを通して神のご計画が啓示された。

 神がサタンの悪事を善に転じられた最大の出来事は、主イエスの十字架の出来事だった。サタンはイスカリオテ・ユダにはいり(ヨハネ13:17)、主イエスを裏切らせて、銀貨三十枚で敵に主を売り渡させた。主イエスはゴルゴタの十字架にかけられるが、その死は神の前に私たち人間の罪の贖いとして受け取られることとなった。神のはかりしれない知恵は、悪魔の知恵のはるかに及ぶところではない。

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(2コリント5:21)

 

(4)理神論(deism)

 理神論はdeismの訳語である。ラテン語で神をdeusということから来ている。理神論は、啓示論のところでも触れたように、創造主は存在することを認めるが、創造の後は、被造物世界に介入せず、被造物はそれ自体の法則によって機能しているとする。人間理性も自律していて、理性で説明できない奇跡や予言といった現象はないと考える。普通、英国のシャフツベリーのハーバート、フランスのヴォルテール、ドイツではレッシングが理神論の代表格とされている。英国名誉革命の理論的指導者であり、英国経験論哲学の代表格ジョン・ロックもアイザック・ニュートンも理神論者であるし、米国独立革命時代のジェファソンも理神論者である。フリーメイソンもユニテリアン教会も理神論である。

 理神論は、理性の自律を求める近代啓蒙思想の流れのなかに生じた有神論と無神論の中間形態という見方ができる。啓蒙主義の「啓蒙」は訓読すれば「くらきをひらく」となるが、中世的・封建的な闇に理性の光をあてることを意味している。闇とは身分制度やさまざまな迷信などを意味するのだが、その中に聖書に記されているもろもろの奇跡や予言も含めてしまう。だが、世界が理性で自然法則として納得できることだけしか起こらないとしても、この見事な秩序が偶然生じたと信じるのは理性的に考えてむりなので、創造主の存在だけは認めておくというわけである。やがて19世紀に、生物種の多様性は偶然の集積と長時間で説明できるとするダーウィンの進化論が登場すると、ハーバード・スペンサーら啓蒙主義者たちは、進化思想を生物界だけでなく、宇宙にまで恣意的に拡大して世界のすべてが進化によって説明できるとした。かくて、ついに創造主までも世界観から排除することに成功したと啓蒙主義者たちは素朴に思い込むようになる。

今日でも、なおこの種の進化思想は蔓延しているらしく、「車はここまで進化した」などと馬鹿なCMを流している。車が偶然の集積と長時間によって、より高度な機能を備えたものに変化するわけがない。知性ある設計者が工夫に工夫を重ねて改良したのである。だがこの手のCMのコピーは無神論というものが、実は、汎神論的であり神秘主義的なものであることをはしなくも示している。現代の無神論者たちはほとんど進化思想に自分の論拠を置いているわけだが、日本昆虫学会会長・京都大学教授であった日高敏隆氏は生物分野以外における進化思想について、次のようにコメントしている。「そもそも生物ばかりでなく、物質についても、宇宙についても進化を論じることが一種の流行であったように思われる。何もかもがそんなに進化すると信じることは、非常に科学的というよりも、むしろある意味でアニミズムなのではなかろうか。」(『動物の生きる条件』)。実際、世界を創造し支配する超越神がいないとすれば、世界そのものの中になにか神秘的な力や意志があると信じない限り、なんの秩序もそこにはありえないし、「下等から高等へ」という概念を前提とした「進化」もありえないのである。彼ら無神論者もまた、実は、無自覚の汎神論者なのである。

 

思想史としては、理神論はヨーロッパ近代啓蒙思想のなかに出現したものであるが、本質的な意味では、創世記2章、3章にすでにその姿を見ることができる。神は人 をエデンの園に置き、彼に園を耕しかつ守るという任務をお与えになった。その時、園のどの木からでもとって食べてよいと許可されたが、「園の中央にある善 悪の知識の木からだけは取って食べてはならない。それを取って食べるそのとき、あなたは必ず死ぬ。」と警告された。園 の中央にある「善悪の知識の木」はなにを意味するのだろうか。それは、人間にとっての善悪を定める権威は神が持っておられるという意味である。人間は自分の生き方における善悪を自分で決めることができると思いあがってはならない。人間の理性は神の権威の下にあることをわきまえなければならない。善悪の知識 の木からとって食べることは、その神の主権にたいする拒否と人間理性の自律の主張を意味した。人間は、サタンの誘惑に陥って以来、神の支配からの自律を欲し、できればその人生の全領域から神の主権を排除したいという衝動を持っているのである。
 有神論から理神論へ、さらに、理神論から無神論へ向かった近代思想の流れは、まさにそうした人間の罪深い衝動の現れであると思われる。