聖霊論08

旧約から新約へ―聖霊によるバプテスマ

 

序 いわゆる「聖霊のバプテスマ」

(1)G.Fee「パウロの異言の神学に向けて」概要

異言の体験とその神学的主張がペンテコステ派のおもな特徴である

②異言の体験は、「新生とは別個な、そしてそれに続く体験」いわゆる「聖霊のバプテスマ」のしるしとされた。それは主に使徒行伝の記事から議論されてきた。

聖霊のバプテスマの受領のしるしとしての異言理解はパウロ書簡における異言理解にも一定の影響を与えた。

結果、ペンテコステ派において異言は 

a.「聖霊のバプテスマ」の最初の身体的なしるしとして、

b.また霊的な賜物として個人的な祈りの言語、また公の集会では解き明かされることに伴う異言によるメッセージを伝えるものとして考えられてきた 

結果、ペンテコステ派においては往々にしてコリ12-14章においてパウロが主張している以上に集会における異言の価値を引き上げる状況が起こっている。ペンテコステ派と他の主にある兄弟姉妹とを分けるシンボルになってしまっている。

 

(2)「聖霊のバプテスマ」という訳語にも問題がある

新改訳も採用している「聖霊のバプテスマ」(マルコ18)という訳語にも問題がある。マルコ18節は「聖霊によって(において)バプテスマを・・・・」と訳すべきところである。前置詞は、enである。マタイ311、ルカ3:16も同じ。

 

 「聖霊によるバプテスマ」というのは、以下述べていくように、新約時代におけるメシヤによる聖霊の注ぎという救いの歴史における画期的出来事を述べているのであって、ある信徒が異言が話せたという体験として事柄を矮小化してはいけない。

 

1 旧約時代における聖霊の働き

 旧約時代から聖霊は働いておられた。ただし、新約時代に比べると限定されていた。

(1) 万物を創造し、保持する聖霊

1:1 初めに、神が天と地を創造した。 1:2 地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。」(創世記1:1,2)

 大洪水による被造物の破壊からの回復は、神の霊(息)によってもたらされた。

8:1 神は、ノアと、箱舟の中に彼といっしょにいたすべての獣や、すべての家畜とを心に留めておられた。それで、神が地の上に風を吹き過ぎさせると、水は引き始めた。」(創世記8章1節)

 ここで「風」と訳されるのは「霊、息」と同語ルアハである。創世記8章、9章は、一度審判で滅びた世界のやり直しのスタートであるから、創世記12節における「神の霊(ルアハ)が大いなる水の上を動いていた」に該当する創世記81節のルアハも「霊」と訳したほうがよいのではないかと思われる。

 

(2)神の民と共にいてくださる聖霊。

詩篇5111 「私をあなたの御前から、投げ捨てず、あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。」

イザヤ6381463:8 主は仰せられた。『まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ』と。こうして、主は彼らの救い主になられた。 63:9 彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、ご自身の使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって主は彼らを贖い、昔からずっと、彼らを背負い、抱いて来られた。 63:10 しかし、彼らは逆らい、主の聖なる御霊を痛ませたので、主は彼らの敵となり、みずから彼らと戦われた。

  63:11 そのとき、主の民は、いにしえのモーセの日を思い出した。『羊の群れの牧者たちとともに、彼らを海から上らせた方は、どこにおられるのか。その中に主の聖なる御霊を置かれた方は、どこにおられるのか。 63:12 その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分け、永遠の名を成し、 63:13 荒野の中を行く馬のように、つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた方は、どこにおられるのか。63:14 家畜が谷に下るように、【主】の御霊が彼らをいこわせた。」

ハガイ25

 2:5 あなたがたがエジプトから出て来たとき、わたしがあなたがたと結んだ約束により、わたしの霊があなたがたの間で働いている。恐れるな。」

 

(3)職務に必要な知恵や技能を与える聖霊

 旧約時代は、聖霊は神が特定の職務に召した人に、その職務遂行のためにくだされた。たとえば、幕屋建設に携わる者たち(出エ28:3/31:3)、民を治める職務にある者たち、モーセや長老(民11:17,25/27:18)、士師たち(士師3:10/6:34/11:29・・・)。預言者たち、祭司たちも聖霊によってその職務を遂行した。

 

(4)「終わりの日」に注がれると預言される聖霊

 「終わりの日」とはメシヤが到来する新約時代という意味(ヘブル1:1)。

①新生のために

エゼキエル362627「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。」

②預言職(宣教)のために

ヨエル228,29

「その後、わたしは、わたしの霊をすべての人に注ぐ。

 あなたがたの息子や娘は預言し、年寄りは夢を見、若い男は幻を見る。

 その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。」

 

2 新約時代における聖霊の働き

 

(1)御子の生涯における聖霊の働き

 聖霊は御子のご生涯においても働いた。

①受肉において、聖霊は御子イエスを処女マリヤの胎に宿らせた(マタイ1:18)。

②聖霊は、イエスがバプテスマを受けられた時、天から下って、イエスにメシヤ(油注がれた者)としての任職の油となられた(マタイ3:16)。

③そして、聖霊は、十字架にかかって死なれた主イエスを死者の中からよみがえらせた。

 「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が・・・」ローマ8:11

 

(2)聖霊によるバプテスマ

 旧約時代に対する新約時代の特色は聖霊がすべての神の民に注がれたことである。雨に譬えるならば、旧約時代にもポツリポツリとは降っていたが、新約時代には土砂降りとなった。この新約時代における土砂降りについては、預言者エゼキエルとヨエルが、予告していたことだった。

① バプテスマのヨハネによる予告(マルコ17,8

1:7 彼は宣べ伝えて言った。『私よりもさらに力のある方が、あとからおいでになります。私には、かがんでその方のくつのひもを解く値うちもありません。 1:8 私はあなたがたに水でバプテスマを授けましたが、その方は、あなたがたに聖霊によってバプテスマをお授けになります。』」

 

聖霊によるバプテスマの預言は、ペンテコステにおいて成就した。使徒1,2章と10章、19

・ペンテコステに 

使徒1:8 「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。 2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、 2:6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばglwssaで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。

 2:7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。 2:8 それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。 2:9 私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ、ユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、 2:10 フルギヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、 2:11 ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばglwssaで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」

 

 肝心なことは、「地の果てまで」キリストの証人となるために、聖霊が注がれたというメッセージである。すなわち、主の世界宣教命令が実現するために聖霊が注がれたのである。そのことを表現するためであるからこそ、聖霊は、彼らにさまざまな国の言葉で福音を証しさせた。これは旧約の預言者ヨエルが「終わりの日」に起こると予告したことだった。

 

2:16 これは、預言者ヨエルによって語られた事です。 2:17 『神は言われる。終わりの日に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたがたの息子や娘は預言し、青年は幻を見、老人は夢を見る。 2:18 その日、わたしのしもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。 2:19 また、わたしは、上は天に不思議なわざを示し、下は地にしるしを示す。それは、血と火と立ち上る煙である。 2:20 主の大いなる輝かしい日が来る前に、太陽はやみとなり、月は血に変わる。 2:21 しかし、主の名を呼ぶ者は、みな救われる。』」

 

聖霊は、異邦人にも救いが及ぶ時代の訪れをさらに明らかにするために、使徒10章、19章でも類似のわざを行われた。

10:44 ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった 10:45 割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。 10:46 彼らが異言glwssaを話し賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。 10:47 「この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。」

 10:48 そして、イエス・キリストの御名によってバプテスマを受けるように彼らに命じた。彼らは、ペテロに数日間滞在するように願った。」(使徒10章)

 

19:5 これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。

 19:6 パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言glwssaを語ったり、預言をしたりした。」(使徒19章)

 

3 「聖霊によるバプテスマ」と異言glwssa(グローッサ)について

 

 使徒10章46節、19章6節で「異言」と訳されるグローッサは、「言語」という意味。使徒2章6、11節では、それぞれ「(他国の)ことば」、「(私たちの国)ことば」と訳されていることを見れば、10章、19章で「異言」と訳すべきであるかどうか疑問のあるところである。だが邦訳聖書はみな異言と訳している。英語訳ではtongueである。

 混乱のある問題なので、特に取り上げておく。関連する箇所は以下のとおり。

① 福音書 マタイ311、マルコ1:8、ルカ3:16、ヨハネ1:33

   ・・・バプテスマのヨハネによる預言

② 使徒1:5、使徒2:1-4 

・・・ペンテコステ。ユダヤ人キリスト者への最初の聖霊の注ぎ

③ 使徒104447111517、使徒1916

   ・・・異邦人(コルネリオ、アポロたち)への最初の聖霊の注ぎ

      旧約時代から新約時代への移行のしるし。

④ 1コリント1213

12:13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」

・・・すべての信徒は御霊によってバプテスマを受けている

 

(1)「聖霊によるバプテスマ」

①ペンテコステ・カリスマ派はこれまで「聖霊のバプテスマ」を受けたしるしが異言であると強調してきた。その聖霊のバプテスマとは、その信徒の霊的な著しい刷新、第二の転機を意味している。ゆえに、異言を語らない信徒はいわばキリスト者として二流であるとされてきた。(近年、このことはかつてのようには強調されなくなってきている。)

 

②聖書によれば、聖霊のバプテスマとは、預言者ヨエルが告げたペンテコステにおける新約時代の到来を意味する出来事である。それは、旧約時代には王、預言者、祭司など特別の職務にあずかる者だけが受けていた聖霊が、すべての信徒に注がれ預言する(神の言葉を語る)という内容である。

「聖霊のバプテスマとは、主イエスが、その贖罪のわざによってあがなわれた者のすべてを、教会というひとつの有機体(からだ)とするために、教会の生命たる聖霊の中にバプタイズされた歴史的事実のことなのです。 これは預言されてきたことが、歴史的事実として成就したのは、ユダヤ人にとってはペンテコステの日であり、異邦人にとっては使徒の働き10章のコルネリオの時であります(エペソ218)。しかもこの二つの事件は分離されるべきではありません。」(赤江弘之『いつ聖霊を受けるのか』西大寺キリスト教会出版p100

聖霊の注ぎこそ世界宣教の原動力である。

使徒1:8「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」

 

③次のみことばは、特定の信徒でなくすべてのキリスト信徒が聖霊によるバプテスマを受けていると告げている。

1コリント1213

「なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」

 したがって、イエスを神の御子キリストであると信じ告白する者は、異言を語ろうと語るまいと、みな聖霊のバプテスマを受けているのである。異言を語る者だけが聖霊のバプテスマを受けたと言うのは、非聖書的

 

(2)聖書に見る異言グローッサとはなにか

①使徒2章・・・ユダヤ人に聖霊が注がれ世界宣教時代を証する出来事

異言とは、聖霊を注がれた人が当人の知らなかった外国語で福音を語ったという現象である。その目的は、異邦人宣教の時代が到来したことを証することであると考えられる。この出来事によって、ペンテコステにエルサレムに集っていた外国から来た人々は、それぞれの母語で福音を聞くことができた。それによって、聖霊は、今や福音が異邦人に伝えられる時代が来たことを証したわけである。

 

②使徒104447、使徒1916・・・異邦人にも聖霊が注がれたことをあかしする出来事。旧約時代から新約時代(異邦人宣教の時代)へ。

  10:44 ペテロがなおもこれらのことばを話し続けているとき、みことばに耳を傾けていたすべての人々に、聖霊がお下りになった。 10:45 割礼を受けている信者で、ペテロといっしょに来た人たちは、異邦人にも聖霊の賜物が注がれたので驚いた。 10:46 彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。 10:47 『この人たちは、私たちと同じように、聖霊を受けたのですから、いったいだれが、水をさし止めて、この人たちにバプテスマを受けさせないようにすることができましょうか。』」

 

 コルネリオの家で聖霊を受けた人が、異邦人がペンテコステにユダヤ人が受けたのと同じくグローッサを話した。ここでも、やはり外国語であったと理解するのが普通であろう。日ごろ使わないお国言葉で主をほめたたえたのであろう。この出来事によって、聖霊は、ユダヤ人キリスト者のうちにあった異邦人伝道に対する抵抗感を打ち消した(使徒1117)

 使徒19:1-6も、ヨハネまでの旧約時代から、新約時代の到来をあかしするための出来事であったことがわかる。

19:1 アポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、 19:2 『信じたとき、聖霊を受けましたか』と尋ねると、彼らは、『いいえ、聖霊の与えられることは、聞きもしませんでした』と答えた。 19:3 『では、どんなバプテスマを受けたのですか』と言うと、『ヨハネのバプテスマです』と答えた。 19:4 そこで、パウロは、『ヨハネは、自分のあとに来られるイエスを信じるように人々に告げて、悔い改めのバプテスマを授けたのです』と言った。 19:5 これを聞いたその人々は、主イエスの御名によってバプテスマを受けた。 19:6 パウロが彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。」

 

③異言とは多くの御霊の賜物のひとつであって、これだけを特別に称揚するのは間違いである。1コリント12711

12:7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。

 12:8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、 12:9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、 12:10 ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。 12:11 しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。」

 

4 旧約時代と新約時代の比較・・・ 2コリント3

 

(1) 聖霊のバプテスマ(全信徒への聖霊の注ぎ)はエレミヤ、エゼキエル、ヨエルの預言の成就である

 3:3 あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。」(2コリント33

 このことばの背景には、エレミヤ書、エゼキエル書の預言がある。

エレミヤ31:31-34

31:31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。 31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──

 31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるすわたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 31:34 そのようにして、人々はもはや、『【主】を知れ』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。──【主】の御告げ──わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」

エゼキエル11:19.20 

11:19 わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。

 11:20 それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。」

エゼキエル36:26-28

36:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。 36:27 わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。 36:28 あなたがたは、わたしがあなたがたの先祖に与えた地に住み、あなたがたはわたしの民となり、わたしはあなたがたの神となる。」

 

 新約における偉大な恵みは、かつては石の板にしるされて人の外にあった律法が、復活して天にもどられたキリストが注いでくださった聖霊によって、人の中に住まわれて、神のきよさをしたい求める性質を私たちに与えてくださったということである。たしかに旧約の時代も恵みであったが、新約の時代はそれに勝る恵みがある。

 

(2)旧約時代の務めと新約時代の務めの違い

 パウロは、続いて、新約時代の伝道者の務めが、いかに旧約時代の預言者たちの務めに勝っているかを語る。

3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。 3:7 もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、

 3:8 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。 3:9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。 3:10 そして、かつて栄光を受けたものは、この場合、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。 3:11 もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。

  3:12 このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆にふるまいます。

 3:13 そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。 3:14 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。 3:15 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。3:16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。」(2コリント3616

 

 旧約の預言者の務め・・・石に刻まれた文字による死の務め、

罪に定める務め

             消え去る

 新約の伝道者の務め・・・御霊の務め、

義とする務め、

永続する

 

(3)御霊による聖化と自由

 御霊の注ぎ・新生を経験した信徒は、キリストのかたちに聖化されていく。そこには自由がある。

 3:17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります

 3:18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。」

 ローマ書、ガラテヤ書は、新約の信徒が、旧約の奴隷的状態に比べて「自由」な子どもであると教えている。ここでも、「子としてくださる御霊」(ローマ8:1416)、「御子の御霊」(ガラテヤ4:6,7)を受けたことが鍵である。

 キリストのかたちに変えられることが自由であるのには、創造論的な理由がある。それは人間が本来、御子に似た者として造られ御子を目指して造られた存在であるからである。(コロサイ1:15及び創世記1:26,27eikwnの釈義から。)主の御霊がキリスト者を聖化するその究極の目標は、「主と同じかたちに姿を変え」ることである。もし人間が本来的にキリストと違うものであれば、それを無理やり主と同じかたちに変えられることは不自由であろう。だが、神はもともと、御子において人を造られたゆえに、人が主と同じかたちに変えられることはますます自由にされることを意味する。

 

 

まとめ

(1)旧約時代、聖霊は特定の職務につく人にのみ与えられた。旧約の務めは文字に仕える務めであり、文字は罪に定めて殺す死の務めであった。その時代の信者は神の前に奴隷的立場だった。

 他方、新約時代。聖霊はすべての聖徒に注がれる。新約時代の教師の務めは御霊に仕える務めである。その務めは、断罪でなく生かすことであり、義とする務めである。新約時代の信徒は神の子どもとしての自由がある。

 旧約の聖徒たちも、新約の聖徒と同じく、将来成就されるキリストの贖罪のゆえに赦されたのだが、それは将来成就するという約束によることだった。旧約の聖徒たちは神の民としての律法に従おうとしたが、これは彼らの外に置かれたものだったから、これを守ることが出来ずに、結局、神の前に罪に定められ、死に定められた。

 しかし、新約時代の伝道者の務めは御霊に仕える務めが与えられている。御霊によって新生したキリスト者たちは、御霊が心の板に律法を刻んでくださったので、神のみことばを好み、内発的に神に従うことを願う者となるので、そこには「自由」がある。「主の御霊のあるところに自由がある」というのはそういうことを意味する。御霊が私たちになしてくださる聖化は、信徒の自覚をともなうプロセスであるが、それは律法の呪いに対する恐怖によってではなく、内側からのあふれるいのちによって進められていく。

 

(2)新約時代に聖霊が注がれた重大な目的は、世界宣教を実行するためである。そのために、王や祭司だけでなく、全ての信徒に聖霊が注がれた。新約の時代には、信徒は聖霊に満たされて、福音を証することができる。事実、エルサレム教会に弾圧が及んだとき、使徒たちはエルサレムに踏みとどまったが、信徒たちは散らされて行き、その行った先々でみことばを宣べ伝えた。

8:1 その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。(中略)8:4 他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。」使徒81,4